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¡Hola! バルセロナ(31)

 

 民謡の宝庫スペイン!多くのスペイン人作曲家が自国の民謡を誇らかに愛し、その旋律やリズムを基にした作品を残している。民謡が放つ濃厚な“スペインの香り”こそ、我ら外国人音楽家がスペイン音楽に心魅かれる最大の要素だろう。M先生も、カタルーニャ、アンダルシアなどの民謡、セファルディーの歌など、様々な民謡、伝承歌を編曲していた。そして更に、「ソーラン節」「おてもやん」「こきりこ節」「音戸の船歌」等々、未発表のままになっている日本民謡の作品があるという。ずい分前に日本の友人T先生が送ってくれた日本民謡の楽譜の中から20曲ほどを選んで編曲した。その後、何の進展もなく時が過ぎた。半年前、突然日本から弟子が飛び込んできた。しかもその弟子はどうやら“語学好き”らしい。もしや…と、すっかり諦めていた作品を棚の奥から取り出した、というわけだ。日本古謡「さくら」も加え、出来れば『日本民謡集』として出版したい、というのがM先生の意向だった。驚いた。そして嬉しかった。日本の歌に興味を持ってくれたこと、そして何より、ご家族みんなで私を支えてくれているM先生のお役に立てることが嬉しかった。これが、茶をたてろ、花を活けろ、というのなら、私にはお手上げだ。しかし出版の仕事となれば、翻訳をしたり、文字を書いたり、と、自分が好きなことを通じて、M先生にささやかなご恩返しが出来るのだ。「喜んでお手伝いさせていただきます!」力が湧いてきた。さっそくスケジュールを話し合った。曲はもう出来上がっているのだから、要は、日本語に関する私の仕事次第だ。「何が何でも帰国までに完成させる」私は決心していた。

 

 日本から資料を送ってもらい、歌詞をスペイン語に翻訳する作業が始まった。民謡の歌詞は素朴なものだ。その根底に人々の喜び、悲しみ、嘆き…様々な心情が込められている。M先生に日本人の情感を伝えながらスペイン語訳を進める作業は興味深いものだった。どういうわけか、話がよく通じた。M先生には日本の情緒、感性を違和感なく受け入れる何か、つうといえばかあ、阿吽の呼吸に近い何かがあった。正真正銘スペイン人なのに、不思議だった。日本の風土、歴史、死生観、はてはヨガや仏教、神道に至るまで話が弾んだ。「きっとM先生の前世は日本人。禅のbonzo(お坊さん)だったのよ」「そう!墨染めの衣を着せたら似合いそう」先生宅での作業の帰り、三樹子さんのお宅に寄ってよく二人でオシャベリしたものだ。

 

 当時は、パソコンはおろかまだワープロもなかった。日本語の部分はすべて私が手書きすることになっていた。筆記具はどうする?ボールペンはきれいに字が書けず、持っている万年筆は書き心地が悪い…。「いいものがある!」M先生が取り出したのは、飾り彫りが美しい古風なペンだ。中国旅行の記念に買って来たという。満面の笑みを浮かべるM先生。書き慣れないペンで印刷される文字を書く。大丈夫だろうか?…不安がよぎったが、エィッ!と使うことに決めた。歌詞、解説その他すべてを翻訳し、一文字ずつペンで書いていく。作業は膨大なものだった。「メグミ、とんでもないことを始めたわねぇ」エレナは呆れている。しかし私は楽しかった。真夜中、シーンと静まり返った部屋でひたすら机に向かう…。ふと受験生時代を思い出す。もう日本もスペインもない。どこにいても同じだと思った。

 

 M先生は何度か日本を旅したことがあった。京都の平安神宮や伏見稲荷で見た鳥居の朱が忘れられない、と言う。「表紙は朱色。そこに黒い漢字で『日本民謡集』と記す」M先生の表紙のイメージは固まっていた。表紙にペン字ではお話にならない。さて、どうしたものか…。父のことが心に浮かんだ。私の父は翠山の名をもつ書道家だった。いかつい外見からは想像もつかない流麗な筆字をサラサラと書いていた。私はM先生に「表紙には毛筆がふさわしい」と説明し、父に依頼の手紙を書いた。

 

 スペインの歌のレッスンと日本の歌の仕事。私は元気になった。毎日が忙しく充実していた。そんなある土曜日、エレナとランチの待ち合わせをした。ところが、いつもは時間に正確な彼女が約束の2時を過ぎても現われない。待つこと1時間。諦めて帰ろうとしたとき、通りの角を曲がって彼女がやって来た。「メグミ、遅れてごめんなさい」憔悴しきった様子、目の下に真っ黒なクマが出来ている。一体どうしたの?  

¡Hola! バルセロナ(32)

 

 「何から話せばいいのか分からない」バルの隅の席に座ると、エレナはジッと私を見つめた。どこかオドオドした表情…。いつものあの生き生きとした笑顔はどこへ行ったの?…事の次第はこうだ。前の週末、大学のフィエスタに出かけた。あまり気が進まなかったが、何度もしつこく誘われるので参加した。誘ったのは、エレナとルームシェアをしているホセだ。薦められるままにワインを飲んでいたが、どこかの時点でプツンと記憶が切れた。後のことは覚えていない。気づいた時には部屋のソファに寝かされていた。ホセのニヤニヤ顔を見て、前夜のてん末を悟ったという。ぽつぽつと語るエレナの話を聞きながら、クリスマスにスゥエーデンからはるばる訪ねて来た婚約者君の顔が心をよぎった。そもそも、エレナがルームシェアした当初から私はホセが気に入らなかった。メガネの奥のどこか狡猾そうな細い目…。「ワインに何か入っていたのよ」エレナがぼそりと言う。…もしかしてdroga(麻薬)?時々、drogaの話題を耳にすることがあった。スペイン語のクラスではお調子者のアントニオが自らの体験談?武勇伝?を語りたそうだったが、私はまるで無関心。エレナは話題そのものを忌み嫌い、アントニオを軽蔑していた。それなのに、そのエレナが…。フィエスタの後、ホセは旅行に出かけたとのこと。「もうあのピソに住むことは考えられない。彼が帰ってくる前に私は別の部屋を見つけて引っ越さなきゃ…」エレナの眼はうつろだ。ショックと混乱が続いているようだった。

 

 次の週末も待ち合わせた。「ションボリしていても仕方がない。元気を出して頑張る」心なし、持ち前の明るさが蘇ったようなエレナの様子に、内心ホッとした。しかしその次の週末、エレナは言った。「メグミ、私、大学を止めることにした」「止める?止めてどうするの?」「国に帰る」急展開だった。私のようなドタバタ留学ではなく、彼女は事前に準備万端整え、まさに満を持してバルセロナに来ていた。スペイン語もよく出来る。危なっかしい私のほうが残り、エレナが帰国しなければならないなんて…。日本の比ではないもののスゥエーデンも遠い。一度引き上げてしまえば、再渡西はそう簡単に叶わないだろう。いいのだろうか?悔いは残らないのだろうか?しかし彼女の決意は固かった。「それで、お願いがあるの」エレナは続けた。「もうすぐホセが帰ってくる。あのピソには居られない。帰国するまでの間、メグミの部屋に居候させてほしい」「もちろんOKよ!」一も二もなく引き受けた。

 

 数日後、ボストンバッグを抱えたエレナがやって来た。リビングのソファはソファベッドとして使える。備え付けの食器もシーツもたっぷりある。何の問題もない。ずっと前、仲良しだったイーヴォ、ピーターそれにエレナの3人が揃って遊びに来たことがあった。お砂糖たっぷりの抹茶(!)を大騒ぎして飲んだことを思い出す。エレナの今の窮状を知ったらイーヴォとピーターはどんなに驚くだろう…。私が外出している間、エレナはほとんど眠っていた。「こんなに“眠れる”なんて信じられない」と笑っていた。髪の毛が伸びない、とも言っていた。彼女は男の子のようなショートカットだったが、事件以降、ピタリと伸びが止まってしまったという。「美容院代が節約できて助かるわ!」と笑ったが、表情には不安の色が浮かんでいた。愛すべき居候嬢エレナのために、私は帰りに食料を買い込み、料理を作った。夕食を済ませ、その日の出来事を彼女に話す。「よろしい。今日もよく頑張りました。セニョリータ・メグミを表彰します!」彼女のトレードマーク、大きな目をクリクリさせてみせる。このお茶目なエレナが…。

 

 帰国前日になった。何故こんなことになったのか?あと1日、また何か予想外のアクシデントが起きて国に帰れなくなるのでは?涙目でエレナが嘆く。明日は荷物を取りにピソに寄らなければならない。その時間にはきっとホセがいる。「嫌だ。どうしよう…」エレナは明らかに不安定になっていた。「No te preocupes(心配しないで)! ピソにも駅にも私がついて行く。大丈夫!」私は勇ましく宣言した。何が何でも無事に彼女を列車に乗せなければ、と、思った。

¡Hola! バルセロナ(33)

 

 エレナが帰国する日がきた。M先生には「大事な友人を駅まで送るので」とだけ説明してレッスンを休ませてもらった。詳細は話したくなかった。

 

 いよいよアパルタメントを出発する時間だ。エレナは緊張していた。いつものように軽口をたたこうと玄関で待機していたポルテロのおじさんも、エレナのこわばった顔に驚き、「Bueno…」と言葉を飲み込んでしまった。大通りでタクシーを拾う。後部座席に並んで座ると、エレナは私の手をギュッと握り「私は本当に帰国できる?」と、何度も繰り返した。小さな子どものようだった。「大丈夫!何の心配もない!」私も何度も繰り返した。ピソに着いた。タクシーを待たせたまま中に入ると、ホセがいた。「Hola!メグミ」エレナを無視し、しゃあしゃあと私に話しかけてくる。どこまでも呆れた奴だ。「Adiós」自室から荷物を持って出てきたエレナが吐き捨てるようにと言った。ホセは返事もせず、メガネの奥の細い目でジッとエレナを見つめている。さっさとピソを出た。ものの5分も経っていなかっただろう。再びタクシーが走り出した。エレナは放心したように座席にうずくまっている。会話無し…。ほどなく目的地、テルミノ駅に着いた。

 

 長距離列車が発着するテルミノ駅。夕暮れのカフェテリアは列車を待つ人でごった返している。ふと、子どもの頃テレビで見た古い洋画の一場面に迷い込んだような気がした。コーヒーカップを片手にウロウロと歩き回り、ようやく空いている席を見つけた。椅子に座るやいなやエレナはポケットに手を突っ込み、千ペセタ札(まだペセタの時代!)2枚と、ありったけの硬貨をテーブルの上に放り出した。「これ、今、私が持っているペセタ全部なの。泊めてもらったお礼。持っていってね」「何言ってるの?お金なんて受け取れない。そんなつもりで泊めたんじゃない!」驚く私にエレナが言った。「聞いて。メグミがそんなつもりじゃないことはよく分かっている。私はペセタと決別したいの。メグミはスペインが大好きで、また来たいと思っているでしょう?でも私はスペインが嫌いになった。もう二度と来たくない。スペインに来ないのだから、ペセタは必要ない。ペセタを持っている意味がない。だからメグミに置いていきたいの」「分かった。それじゃ大事に、でもパーッと使っちゃうね」努めて明るく答えるしか仕方がなかった。

 

 発車時刻が来た。「いろいろ本当にありがとう。3月のコンサートを聴けなくてゴメンなさい。必ず成功すると信じている。もう会えないかもしれないけれど…。元気でね」ホームで挨拶を交わし、エレナはデッキに立った。たぶん本当にもう二度と会えない、そんな気がした。いつの間にかゆっくりと列車が動き出す。お互い、精いっぱいに背伸びをして手を振り合う。昔見た洋画のようだ、と、また思った。列車は静かに遠ざかり、やがて姿が見えなくなった。

 

 アパルタメントに戻ると、玄関でポルテロのおじさんが待っていた。「ひとりか?さっきの友だちはどうした?」「彼女は国に帰ったの」「国って、どこだ?」「スウェーデン」「そりゃ遠いなぁ…」「…」突然、おじさんは例のゴリラのポーズで胸を叩いてみせた。「メグミ、castigada(おしおきだ)!」慰めてくれているのだ。おじさん、ありがとう。

 

 ついさっきまでエレナがいた部屋は、またひとりぼっちの空間になった。ソファベッドを元の位置に戻す。彼女を助けるつもりだったが、束の間のルームメイト登場で心の張りを得ていたのは、実は、私のほうだったかもしれない。今頃、列車はどこを走っているのだろう…。彼女はひとりでどうしているだろう…。生来の寂しがりの虫がムズムズうごめいていた。いけない、いけない。私は「日本の歌」の原稿を取り出し、いつもと同じように作業を始めた。こういう時、没頭できる仕事があるのはありがたい、心底そう思った。

¡Hola! バルセロナ(34)

 

 日本民謡集出版に向けての作業は順調だった。M先生はそれまでに何度か来日の経験があり、東洋、とりわけ日本に対して深い尊敬の念を抱いていた。歌詞のスペイン語訳を進めながら、日本の風土、習慣、日本人のものの感じ方についてM先生と語り合うのは興味深いことだった。打合せ等でご自宅へ行く機会が増えると、M先生一家は、まるで親戚の娘のように私を迎え入れてくれた。お母様のマリアはいつも髪を後ろでまとめ、小さなメガネをかけている。ふと子供の頃に大好きだった「赤毛のアン」のマリラを思い出した。マリラは厳しくコワいおばさまだったが、マリアは違う。お料理上手の優しいおばあちゃまだった。読書好きで、よくベランダの籐椅子に揺られながら本を広げていた。「マリアは本当に読書が好きね」と、私が言うと、「ええ。でもね、どんな小説より面白いのは人間ひとりひとりの人生よ」と、ニッコリ微笑む。対照的に、父上は、それはそれは無口な方だった。私は挨拶をする以外に、ほとんど話をしたことがなかった。ある時、何かの事情で父上と私が二人で留守番をするハメになったことがある。皆が出かけ、シーンと静まり返った室内。何か話さねば…。困った…。「メグミ」父上がおもむろに話しかけてきた。「ハイ」思わず緊張が走る。「私は日本が好きだ。なぜなら、これまでに一度もスペインと戦争をしたことがないからだ。日本が好きだから日本人も好きだ。だからメグミはいつでも安心してここへ来ればいい。ここはメグミのスペインの家だ」ひと言ひと言押し出すように語る父上の言葉に胸がジーンとした。2人っきりの留守番に当惑していたのは私だけではなかったのだ。「この日本人娘と何を話そう…」父上も一生懸命に考えてくれていたのだ。「ワシはメグミと楽しく過ごしたぞ」帰宅したM先生の奥様に、どこか得意げに報告している父上。ありがたく、ちょっぴり微笑ましかった。

 

 こうしてスペイン語を話す機会がどんどん増えた。街中での会話を聞いて、「なるほど!こういう時にはこういう風に表現するのか」と、日常の言い回しを覚えることもあった。愉快だったのは、「外人」の話すスペイン語を聞いて、その人の母国が分かるようになったことだ。この語尾の感じはポルトガル人、この母音の曖昧さはアメリカ人、この独特のイントネーションはイタリア人、この息の吐き方はドイツ人…etc。そんなある日、ひと息入れようと英語の雑誌を広げた。アレ?変だ。頭が反応しない。目は文字を読んでいるのに内容が入ってこない。どこか遠くの外国語、ただの暗号のようにさえ感じられる。そのうちに、あろうことか、英語をスペイン語に訳して理解しようとしている自分に気が付いた。これは一体どうしたことだ?翌日のレッスンのとき、M先生が何かを英語で言った。ポカンとしている私に先生は怪訝な顔をする。「今のことをスペイン語に訳すと…」私がおずおず問いかけると、先生はビックリ仰天!目を丸くした。そりゃそうだ。つい数ヶ月前まで、私達は英語で意思の疎通を図っていたのだから。あまりにも熱烈に、あまりにも急激にスペイン語に没頭したため、私の英語は頭の中からはじき出されてしまったのだろうか?謎だ…。「メグミの英語はどこへ行った?」M先生は時々、いかにも可笑しそうに私をからかった。

 

 エレナ事件でショックを受けている私を元気づけようと、三樹子さんがコンサートに連れ出してくれた。リセウ劇場では郷土のスター・ホセ・カレラスが出演するオペラ、カタルーニャ音楽堂(パラウ)ではウラジミール・アシュケナージのピアノリサイタル。どちらもバルセロナを代表する建築、超一流の演奏家によるコンサートで素晴らしかった。でも、私の心には、まだどこかポッカリと穴が空いていた。しばらくして、やっとエレナから手紙が届いた。国に無事帰り着き、親元で静養しているとのこと。「落ち着いたら子どもに絵を教えようと思う」と書いてある。よかった。とにかく、よかったのだ。リサイタルが近づいていた。メソメソしている場合ではない、と自分に言い聞かせた。

¡Hola!バルセロナ(35)

 

 スペイン歌曲以外にリサイタルで歌いたい曲はないか?とM先生に聞かれ、私は大学時代の思い出の曲、H.ヴォルフの「Kennst du das Land?」を選んだ。大学4回生の1年間、歌うことそのものに疑問を抱き始めた私は、何故か心に真っ直ぐに響くヴォルフの作品ばかりを歌っていた。外側から形を作るのではなく、内側で自分が感じたものを歌いたかった。”表現”とはそういうことではないか?この思いが私をスペイン歌曲に導いた、ともいえる。迷い悩んでいた自分が、時を経てやっと解放されたような安堵感があった。本番が近づいても、M先生は普段とまったく変わらず、淡々とピアノを弾いている。しかしそのピアノが醸し出すエネルギーはすごい。M先生のピアノと一緒に歌うと百倍?千倍?一万倍?上手く歌える気がした。しかも、歌うたびに新しい発見がある。アパルタメントから、ゆるい坂道を登ってご自宅へ伺い、レッスン室に飾られたビクトリア・デ・ロス・アンへレスが微笑む写真を見上げ、M先生のピアノで歌う。なんと贅沢な時間だったことか…。

 

 日本から荷物が届いた。今度は郵便局での受け取りもスムーズに済ますことが出来た。アパルタメントに帰って段ボール箱を開けると、荷物の一番上に、大切に包まれた数枚の『日本民謡集』の筆字が入っている。「何種類か書いてみた。気に入った字を選ぶように」と父からの手紙が添えられている。母に頼んだドレスも入っていた。黒地にスパンコールの大きな花柄が入ったお気に入りのドレスだ。久しぶりに着てみると…ムム!どうしたことだ?ファスナーが上がらない。無理やり引き上げると、胸がギュッと締めつけられた。バルセロナでの暮らしに慣れ、すっかり居心地が良くなった私は、自分でも気がつかないうちにムクムクと太っていたのだ。そういえば、日本を発つ時にはいて来たジーンズのボタンが止まらない。あらためて鏡に向かってみると、顔がまん丸に膨らんでいる。顔面割れ治療薬の副作用かと思っていたが、どうもそれだけではないらしい。昔どこかで見た、ピアノリサイタルの情景が浮かんだ。はちきれんばかりのウエストにサッシュベルトを締めて登場したピアノスト嬢。曲も終盤、盛り上がったところで思いっ切り鍵盤を叩いた瞬間、プチーンとベルトが切れた。夢み心地で弾き続ける彼女。しかしその足元には、無残に引きちぎれ、吹っ飛んだベルトが…。私は歌うのだから、彼女よりもっと危険だ。いや、そもそも、こんなに苦しくては十分に息も吸えない。しかしリサイタルまで残された日はわずかだ。どこかの店でドレスを買い、サイズのお直しをしている時間はない。だいたいそんなお金の余裕もない。よし!私は部屋で毎日ドレスを着て、本番までに体をドレスに対応させる決心をした。(はたしてそんなことが可能か…?)

 

 髪がまた問題だった。私はバルセロナへ来てから一度も美容院に行っていなかった。伸びた髪を輪ゴムで結わえ、前髪は台所備え付けのキッチン鋏を拝借して(スミマセン)自分で切っていた。経験がある方はお分かりと思うが、前髪を左右同じ長さにそろえて切るのはとても難しい。どちらかが長くなったり短くなったりする。それを修正しようと切り続けるうちに、前髪全体がツンツンに短くなる。ちょうどサザエさんの妹、ワカメちゃんの様相だ。「メグミさん、お願いだから、その輪ゴムだけは取って舞台に出てね」と、三樹子さんにも言われていた。横後ろ伸び放題で前髪はワカメちゃん…さすがにまずい。仕方がないので、本番の日、髪だけは近くの美容院で何とかしてもらうことにした。街の中心部にはお洒落な美容院が沢山あったが、こちらはいかにも下町のパーマ屋さんの風情。一週間前に予約に行った。「あまりにも伸びているから、本番前に一度カットしてもらった方がいいでしょうか?」と、尋ねると、「前もってカット?そんな必要はありません。当日来れば、舞台にピッタリのスタイルに仕上げてみせます。私にお任せください!」店主のおじさんは、自信満々の笑顔。なにかイヤーな予感がした。

¡Hola! バルセロナ(36)

 

 いよいよリサイタル当日。天気は大雨。時折ビューッと台風もどきの大風が吹いてくる。湿気が多いと、私のくせ毛はますます膨張して始末に負えない。やはり美容院に行くことにしておいてよかった。諸々準備を済ませ、予約の時間に出かけた。

 

 「いらっしゃいませ」美容師のおじさんは今日も満面の笑み。うやうやしく私を椅子に座らせ、7か月で伸びに伸びた髪をブラシで勢いよく梳き始めた。が、いつまでたっても、ただ髪を引っ張ったり束ねたりしている。ふと不安になった。「予約の時にお願いしたこと、覚えていますよね?今夜、コンサートで歌うのです。ドレスを着るので、それに合う髪形にしてほしいのです」「えっ?コンサート?あ、そうそう、そうでしたね。もちろん覚えていますとも!お任せください」「…」「ところで」突然、おじさんが質問してきた「cantante(歌い手)なら、ホセ・カレラスを知っていますか?」「もちろんです」と私。「素晴らしい!そうです、あの!あの!ホセ・カレラスです。実は、私の親戚の友人の妹のご主人の同僚の奥さんの弟が彼と親しくてね。こう見えて、私もクラシック通なんですよ。オペラにもしょっちゅう行きます。リセウ!あの豪華な劇場!私はあそこの支配人と友達でね。まぁ、これというオペラはすべて見ました。ビクトリア・デ・ロス・アンへレスを知っていますか?モンセラ・カバリェも?アハハ!もちろんですよね。バルセロナにはスターがいっぱい!彼らは偉大です。我らがバルセロナ!ってところです。バルセロナには、もうひとつ忘れちゃいけないものがある。バルサ、そうバルサです。有名なサッカーチームですよ。カンプ・ノウはすぐ近く。ご存知ですか?おっと失礼。お客様はcantanteでしたね。日本といえば、ほら、有名なオペラがあったでしょう。ええと、ええと…」おじさんは、ひとりでベラベラよく喋る。肝心の髪は、というと、どんな仕上げになるのか、さっぱり分からない。前や後ろをつまんでチョンチョン切り、頭皮が火傷しそうなほど熱いドライヤーをかけ、今度はカーラーで髪を巻き始めた。これから巻く?「あの、時間が…」思わず言いかけると「間に合います」と私の言葉をシャットアウト。「はい、これでもどうぞ」と、ファッション雑誌を渡された。そっと鏡をのぞく。おじさんの顔が引きつっているように見える。出来ない?まさか…。頭はカーラーが5個巻きついたサザエさん状態。今ここで止めるわけにはいかない。どうする?どうしようもない。一応プロの美容師なのだ。何とかするだろう。私は観念して雑誌を広げた。おじさんは巻いた髪に再びドライヤーをあてたり、カーラーを外してまたカットしたり、何事か作業を繰り返している。どのくらい時間が過ぎたのだろう。「出来ました!」つい雑誌に夢中になっていた私は、おじさんの大きな声で我に返った。鏡を見ると…。こんもりと高く盛り上がった頭頂部、横もふんわり大きく膨らみ、まるで大きなキャベツのようだ。小学校入学式の記念写真に写っていたン十年前の母の髪形を思い出した。しかも前髪は日本人形のごとく一直線。丸く膨らんだ顔がますます丸く見える。「しっかり固めてあります。どんなに雨に濡れても、どんなに時間が経っても大丈夫!」どうだ、と言わんばかりに得意げなおじさん。呆然とする私…。不覚だった。雑誌など眺めず、見張っているべきだった。しかし、今さらどうしようもない。時すでに遅し。それどころか、リハーサルに遅刻しそうだ。「ご成功をお祈りします!」おじさんの明るい声に送られて、私は美容院を飛び出した。

 

 タクシーに乗ったものの、雨のせいか道が混んでいる。のろのろ、のろのろ、のろのろ…。「急いで!」と叫ぶ私。「そりゃ無理だぜ、nena(ねえちゃん)」と無愛想な運転手。歌う本人がリハーサルにいないことなどありえない。冷や汗が流れた。やっとの思いでたどり着き、建物に駆け込んだ。「遅くなりました。ゴメンナサイ!」楽屋の入り口で待っていてくれたM先生ご夫妻とマリア、振り向いた3人の笑顔が消えた。目を大きく見開き口をあんぐり。言葉が出ない様子。しばし沈黙のあと、M先生が絞り出すような声で言った「メ、メグミ、いったい何をしてきたの…?」  

¡Hola! バルセロナ(37)

 

 「今夜はコンサートだから髪をきれいにしようと思って…」私が説明しかけると、M先生の奥様がご自分のバッグからサッと櫛を取り出した。「大丈夫。私が直してあげます」ところが…Dios, mio!美容師のおじさんがスプレーで入念に固めた髪はカチンコチン。梳かすことも崩すこともできない。威風堂々、頭上に揺るがぬドームを築いている。奥様が肩をすくめた。どうしようもない。リハーサルが始まった。声の調子は悪くない。しかし、M先生一家の仰天した気配がひしひしと伝わり、私はおそろしく居心地が悪かった。日本では演奏会の前に美容院へ行くのは当たり前だ。スペインではそんな習慣はないのだろうか?いや、そんなはずはない。カバリェもベルガンサも、たった今美容院から出てきました、みたいな頭をしている。でも、そういえば、ビクトリア・デ・ロス・アンへレスはいつも普通の髪形で歌っているなぁ…。

 

 午後9時開演。前のピソの住人、壇オーナーとマリア・ドローレス夫妻、イガグリ君、玉ネギ氏が聴きにきてくれた。あんなに楽しみにしてくれていた三樹子さんの姿が見えない。後で分かったことだが、彼女は、出かけようとした時に突然玄関ドアが壊れて来られなくなった。以前も書いたが、三樹子さん宅に関して、なぜか私は破壊魔~デストロイヤーだった。皿が割れる、などという生やさしいことでは済まない。大型冷蔵庫が動かなくなったり、テラスの大きな窓ガラスにパーンと亀裂が入ったり…。私が本気で動くと、彼女の家の何か突拍子もないものが壊れるのだ。「メグミさん、凄いわね。いったいどんなパワーを隠し持っているの!?」彼女はいつも大笑いしてくれたけれど、ゴメンナサイ。

 

 M先生のピアノ前奏が始まった。私は、窮屈なドレスのことも、大きく膨らんだキャベツ風髪型のこともすっかり忘れ、グラナドス、モンポウ、ロドリーゴ、ヴォルフの作品を気持ちよく歌った。緊張を越えて本番が楽しい、というのは初めての経験だった。お客様は拍手大喝采。「彼女はついこの間までウチにいたんですよ。右も左も分からないので、僕が全部面倒を見てね」などと、壇オーナーは周りの人に自慢している。「ビックリしたなぁ」ニコニコ笑顔のイガグリ君。「なかなかよかったですよ」クールを気取る玉ネギ氏。彼らがいてくれたから、私はとりあえずバルセロナでの生活を始められたのだ。ありがたかった。過ぎた7か月を振り返り、しみじみと感涙にむせぶ場面?いや、そうはいかない。M先生一家は、最後の最後まで「キャベツ頭の衝撃」から抜け出せずにいるようだった。結局私もリサイタルの成功はどこへやら、心底ションボリしてしまった。

 数日後、『日本民謡集』の仕事でM先生のお宅にうかがった。いつものように見上げるビクトリア・デ・ロス・アンへレスの写真。やはり髪形は“普通”だ。「リサイタルではよく歌えていた」とM先生。そこで会話は終わり、キャベツ頭に関する言及は一切なし。奥様もマリアも髪のことは何も言わない。きっと思い出すのもイヤなのだ…。私は、泣き出しそうな気持ちを必死に堪えた。『日本民謡集』の作業は順調に進んでいた。「このままいけば予定より早く出来上がる。帰国前にどこかでミニ・コンサートを開くのはどうか?そうすれば、メグミのパパにも喜んでもらえると思う。メグミは歌う気があるか?」とM先生が言う。もちろん!だ。こんなに嬉しい話はない。「どこのサロンが使えるかな?」「今から予約が取れるかしら?」M先生と奥様が相談を始めた。急なので空いている場所が見つかるかどうか分からない、とのこと。ダメならダメでもいい。この無謀な留学とそれを支えてくれた多くの人たちの思いが結実し、影も形もなかった『日本民謡集』が、今、姿を現そうとしている。夢のようだった。それだけで幸せだった。

 

 「ところで」M先生があらたまった口調になった。「〇日は空いているか?」「はい」「よろしい。では△時にウチへ来なさい。モンポウのお宅へ連れて行く。そこで彼の作品を歌うように」「歌うって、ご本人の前でですか?」「もちろん」「…」 

¡Hola! バルセロナ(38)

 

 よく晴れた4月の午後、M先生と奥様に連れられ、マエストロ・モンポウのお宅へ伺った。椅子にゆったり座ったフェデリコ・モンポウ氏と奥様のカルメン・ブラボ女史が笑顔で迎えてくださる。少々緊張気味の私。ご挨拶の後、「貴女がメグミなの?」などと質問が始まったところで、呼び鈴が鳴った。「ごめんなさいね。急に取材が入ったのよ」とブラーボ女史。勢いよく部屋に飛び込んで来たのは、アメリカ人女性ジャーナリストだ。妙にケラケラと明るい。挨拶もそこそこに、昔のハリウッド映画の女優のごとく目を大きく見開き、派手な身振り手振りを交え、英語で自己紹介を始めた。部屋の空気が一変した。子どもの頃は「外人」といえば皆同じに見えていたが、こうしてみると、いかに雰囲気の違うことか。ひと段落したところで、アメリカ嬢は初めて私の方を見た。「彼女は日本から来たのよ」ブラボー女史がまだ言い終わらないうちに、「Wonderful!」と、大袈裟なアクション付きで感動してみせる。変な女だ。「フェデリコの曲をメグミが歌うから、貴女もお聴きなさい」「歌う?彼女が?」怪訝な顔をしている。ブラーボ女史がM先生に目で合図をした。M先生はいつものように淡々と弾き始めた。「牧歌」「川面に雨が降る」「雪」など、バルセロナへ来て学んだ曲を歌う。モンポウ作品の透明な音、内なる静寂…。アメリカ嬢は大きく目を見開き、ジッとこちらを見つめている。「Muy bien」そして「Más(もっと)」とモンポウ氏が言ったとき、彼女の目がわずかに歪んだ。「『君の上にはただ花ばかり』を歌いなさい」とM先生が言う。あの歌を、あの憧れの歌を、モンポウ氏ご本人の前で歌える!幸せだった。緊張などすっかり忘れてしまった。ここはバルセロナ、美しく豊かな音楽、ふんわりと優しい時間…。と、そこで、もう我慢できない!とばかりに、アメリカ嬢がいきなりモンポウ氏に話しかけた。ワーワー言っている中身はともかく、「何故こんな日本の小娘が私より歓迎されているの?」と怒っているのが分かる。「これだから困るのよねぇ」ブラーボ女史が小さくタメ息をついた。ほどなくM先生ご夫妻と私はお宅を後にした。モンポウご夫妻からは過分なお褒めの言葉を、そして『夢のたたかい』の楽譜にはモンポウ氏自筆のメッセージとサインをいただいた。夢のたたかい、ならぬ、まさに夢の実現だった。

 

 数週間後、M先生ご夫妻は、私をナタリア・グラナドスのお宅へも連れて行ってくれた。スペインを代表する作曲家のひとり、エンリケ・グラナドスの末娘さんである。白髪の美しい上品なナタリアさんとお医者様のご主人がそれはそれは温かく迎えてくれた。グラナドスの遺品が展示された部屋には、屏風、蒔絵、絵画など“東洋”のものがズラリと並んでいる。「父は日本に憧れていました」ナタリアさんが目を潤ませた。エンリケ・グラナドスの最期は哀しい。第一次世界大戦中の1916年、自作のオペラ『ゴィエスカス』の世界初演に立ち会うため、グラナドス夫妻はニューヨークへ渡った。公演は大成功。しかしその帰路、2人が乗った船は英仏海峡でドイツ潜航艇による無差別攻撃を受け、沈没。グラナドス本人はいったん救助されたが、波間でもがく妻を救うため再び海に飛び込び、ともに消えたと伝えられている。バルセロナで待ちわびる6人の子どもたちのもとに両親は帰ってこなかった。末娘のちいさなナタリアさんは、どんな思いでこの知らせを聞いたのだろう…。グラナドスの代表的歌曲集『Tonadillas』『Amatorias』の中から「悲しみにくれるマハ」「心よ、お泣き」など、大好きな作品を聴いていただく。「パパの曲を日本人のniñaがこんなに上手に歌うなんて…」ナタリアさんは何度もこの言葉を繰り返し、私を抱きしめた。隣の部屋には心づくしのコーヒーとお菓子が用意されていた。ご夫妻に問われるままに、日本のこと、歌のこと、バルセロナでの生活のこと等々をお話しする。ナタリアさんの童女のような瞳が印象的だった。帰り際、「もう会えないかもしれない。けれど、メグミのことは忘れない。これは天国のパパも同じ気持ちだと思う。来てくれてありがとう」ナタリアさんはそう言って、私を強く抱きしめた。「私も決して忘れません。本当にありがとうございました」ふいに涙があふれた。今日初めて会ったとは思えない親しさ、愛しさだった。

¡Hola! バルセロナ(39)

 

 5月に入り、帰国が現実味を帯びてきた。こちらへ来るときはKLM機のビジネスクラスという優雅な旅だったが、帰りは最安値の某国某航空会社に決めた。東京へは週2便が飛んでいたが、途中乗りかえで1泊する便はすこぶる評判が悪かった。東京に着いた時に誰かが消えていた、なんてことがしょっちゅう起きているという…。「メグミさん、お願いだから1泊しない方の便にしてね」楽天家の三樹子さんまで真顔で言うので、私は4時間そこそこで乗り換える方の便を予約した。「まぁ!よくもあの飛行機に乗る気になるわねぇ。夜寝る時は雑魚寝、食事もまずい。それに、今までに何人も行方不明になっているのよ。あなた、何も知らないのよ。何が起きても構わないって言うならいいけど、そういう覚悟はあるの?」日本食料品店のおばさんは血相を変えて私にお説教した。しかし、背に腹は代えられない。船便で出す荷物の準備も始めた。元々スーツケースひとつでやって来たのだから身軽なものだ。しかし膨大に増えたものがある。楽譜だ。海を越えた荷物が消えてしまうのはよくあることだった。私にすれば、某国の某飛行機よりずっと恐ろしい。楽譜はかけがえのない財産だ。出来ることなら、すべてを手荷物にして肌身離さず抱えて帰りたかった。しかしそんな訳にもいかない。大切な楽譜の、その中でも特に特に大切なものを選び出してスーツケースに詰め、そのほかの楽譜を祈るような気持ちで日本に発送した。Ojalá!どうぞどうぞすべてが無事に日本に届きますように!

 

 初夏を思わせる明るい陽気が続いていた。朝起きて、少々日当たりは悪いけれど大きな窓を開け、まずリビングに風を通す。アパルタメントの向かいのパン屋でセニョーラたちに交じってuno de cuartoのパンを買って朝食。ひとり暮らしには誠に贅沢な広々とした部屋で掃除、洗濯等々、家事をするのも楽しい。市場で買い物をして、ポルテロのおじさんと軽口をたたき、午後は歌の練習そしてレッスン。日曜日の午前中はカタルーニャ美術館へ。どこにどの絵があるかをすべて覚えてしまったが、それでも何時間いても退屈しなかった。夕方には、ゴシック地区をよく歩き回った。カテドラルの裏、ピカソ美術館のあたり、細い道を抜けてランブラスでコルタードを一杯!くたびれたら地下鉄に乗るもよし、元気ならアパルタメントまで歩くのもよし…。すっかり馴染んだバルセロナでの穏やかで幸せな生活がもうすぐ終わろうとしていた。

 

 『日本民謡集』は6月初めに完成する予定だった。スペイン語、カタルーニャ語、英語による歌詞訳と日本語の読み方の手引きが付いた立派なものだ。鮮やかな朱色の表紙に「日本民謡集~歌とピアノのために」と父の毛筆字が躍っている。なにしろ日本人は私ひとりだ。校正原稿を何度もチェック、M先生と一緒に印刷屋に出向き、日本語部分に間違いがないかを確認した。いつのまにか、全員が私の「Bien(OKです)」を待って次の作業に進む、という流れが出来上がっていた。なんと責任重大なことよ!…しかしこれは後年感じたことで、当時の私はそんな重責感とは無縁だった。作業が自分の性分に合っていたこともあるが、何よりもバルセロナの街で歌い、学び、師匠を手伝い、日々忙しく暮らしていることが幸せだった。自分でも不思議なほど“Barcelona”が好きだった。

 

 ある日、M先生のお宅に伺うと、先生と奥様、母上のマリア、そして、いつもは書斎でひとり本を読んでいる父上までが揃って私を待っていた。何か様子が違う。「メグミ、大変なことになった」M先生が神妙な面持ちで言った。「エッ?何かとんでもないミスが見つかったのですか?印刷が出来なくなったのですか?」「いや、それは心配ない。楽譜はもうすぐ出来上がる。出版記念コンサートのことだ。このコンサートは、私個人ではなく市の主催で開かれることになった。会場はSala de Cienだ」出版記念演奏会をバルセロナ市が主催する?Sala de Cien?Sala de Cienって、あのガイドブックに載っている有名なSala de Cien(百人議会の間)…?

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¡Hola! バルセロナ(40)

 

 「日本民謡集出版は日本との文化交流に寄与する貴重な業績である。バルセロナ市はその意義を認め、出版記念演奏会を市の主催行事としてSala de Cien(百人会議の間)で行う」と、市の担当者から連絡があったそうだ。中世バルセロナでは、名誉市民、商人、職人らから成る「百人会議」があった。1374年開催の第1回会議から議場として使用されてきた由緒ある部屋が”Sala de Cien”だ。そこへグランドピアノを運び込み、記念式典の後で、M先生と私が演奏する。Cantante japnesa(日本人の歌い手)の帰国が7月に迫っている、と、M先生が事情を説明したところ、6月中に開催することを約束してくれたという。あまりにも光栄な話に、私はポカンとした。いや、私だけではない。予期せぬ展開に、M先生もご家族もまだ実感がわかない様子だった。

 

 「メグミ、美容院へ行ってはいけません」突然、奥様が言った。「そうだ。絶対に行ってはいけない」とM先生。「そうそう。行かない方がいい」母上までが口をそろえる。大いなる演奏会に向けての最重要事項、という雰囲気…。あぁ、やはり3人ともあのキャベツ頭が気に入らなかったのだ。「メグミの髪は私が切ります」奥様が厳かに宣言した。聞けば、奥様は髪をカットする特技をお持ちだそうだ。リサイタルの前にそれが分かっていれば…。「衣装も考えなければならないわ」Sala de Cienで歌うcantante japonesaをどんなスタイルに仕上げるか、そのことで奥様は頭がいっぱいのようだ。「メグミ、やったね!」M先生の息子さんがウィンクしてくれた。彼は心優しいguapo、今時の若者である。クラシック音楽を学ぶには最高の環境にありながら、まるで興味がない。父親、つまりM先生の演奏会にも来たことがなく、それどころか、流行のロックンロールに夢中で家中のひんしゅくを買っていた。「でも、その日は行くよ」とのこと。嬉しいなぁ。「へんてこりんな服で来ちゃダメよ」奥様が慌ててクギをさした。「メグミ、おめでとう。楽しみだね」母上が優しく抱きしめてくれた。いつもひとり書斎に引きこもり、冷静沈着、感情を表に出さない父上まで、なぜか今日はリビングをうろうろ歩き回っている。「演奏する曲を決めなければ」思い出したようにM先生が言った。そう!私の髪型よりそちらの方がよほど重要ではないか。でも、ちょっと待て。そもそも肝心の楽譜がまだ刷り上がっていないではないか。大変だ。こうなったら、何が何でも予定通り6月初めに納品されなければならない。決してHasta mañana!というわけにはいかなくなった。

 

 数日後、記念演奏会で使用するピアノを選ぶために、M先生が楽器店に連れて行ってくれた。私はピアノが好きだ。子どもの頃のお稽古ピアノは好きになれなかったが、大学時代、素敵なおばあちゃま教授がピアノを弾く楽しさを教えてくれた。バルセロナへ来てからもバッハ、モーツァルト、はたまたアルベニス、グラナドスなどの楽譜を仕入れ、アパルタメントで弾いていることをM先生は知っていた。「日本の歌を演奏するのだから、日本人のメグミが気に入った音色のピアノを選びなさい」とのこと。M先生の日本への敬愛は格別だった。店の奥の広いフロアーにグランドピアノがずらりと並んでいる。楽器は生きものだ。音も個性も一台一台違う。M先生が次々と試弾する音を、これは響きが明るい、あれは低音が重い、などと聴き分けて行く。興味深く楽しい作業だった。ピアノ科でもない私がこんなに入念にピアノに関われる機会は少ない。ふとあの大学のおばあちゃま教授を思い出した。「貴女は歌科なのだから、歌うように弾いてごらんなさい」が口癖だった。レッスンの合間に真っ赤なハイヒールでダンスのステップを踏んでいた、お洒落でお茶目なS先生。今、私がスペインで音楽三昧の幸せな日々を過ごしていることを知ったら、どんなに驚き、喜んでくれるだろう…。何台も何台も聴き比べ、最後に、深く落ち着いた音色でM先生もタッチが気に入った一台を選んだ。このピアノが演奏会当日、Sala de Cienに搬入される。

 

 M先生のご自宅へ向かうと、今度は奥様が待ち構えていた。いよいよ重大イベント?メグミの髪カット開始!である。私はベランダの椅子に座らされ、ビニールの長いケープを肩からすっぽりかけられた。

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