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歌修業日記¡Hola! バルセロナ》

谷めぐみのバルセロナ歌修業日記です。
日西翻訳通訳研究塾が発行するメールマガジンにて、2008年7月から2013年4月まで連載されました。
スペイン歌曲との偶然の出会い、単身渡西、スペイン語との格闘、スペイン歌曲三昧の日々、「百人会議の間」での出版記念演奏会、人々との国境を越えた心温まる交流…。80年代バルセロナの街の風情とともに、生き生きとした日常が描かれています。

Barcelona写真 007.jpg

¡Hola! バルセロナ(1)

 

​ ある国との出会い、ある街との出会い。その妙は人生のどこに潜んでいるのだろう。このたび思いがけない機会をいただき、バルセロナでの想い出を綴らせていただくことになった。無謀な留学を無事終えることが出来たのは、Gracias a Dios、まさに神様のご加護と良き人々の支えのおかげだ。深い感謝とともに懐かしい日々を思い起こしてみたい。

 

 スペインの歌との出会いは偶然だった。大学卒業後、友人のギタリストに誘われ、彼のコンサートで黄金世紀の歌曲やガルシア・ロルカ採譜によるスペイン古謡など数曲を歌うことになったのだ。スペインという国に特別な憧れがあったわけではない。小学校の学芸会でフラメンコ風のお遊戯「花のセニョリータ」を踊ったこと、テレビの歌番組で西郷輝彦が歌う「星のフラメンコ」がとても格好良く見えたこと。「スペイン」で心に浮かぶ思い出はこの二つくらいだ。友人ギタリストに歌詞の読み方と大まかな意味を教えてもらい、練習を始めた。これが楽しかった。コンサートは大成功。本番が終わっても私のスペイン歌曲熱は冷めなかった。数少ない楽譜を探し、見つけると片っ端から歌ってみた。初めて歌うのにどこか懐かしい、不思議な感覚だった。

 

 一応歌えるとはいえ、発音はお粗末なものだ。スペイン語の知識もない。例えば、古い歌曲の楽譜には「Anónimo(作者不詳)」と記されているものが多い。この「Anónimo」を、私は作曲者名、アノニモさんだと思い込んでいた。よくもまぁ一人でこんなに沢山の曲を作れたものだ、と。

 

 留学が決まった私は、語学スクールに慌てて飛び込んだ。レベルはもちろん初級。しかし授業が始まってみると、私以外の受講者は全員スペイン語歴があるらしい。皆、悠々と落ち着いている。何度目かの授業で「extrañoを使った作文」という課題が出た。辞書を見ると「奇妙な」とある。よく分からない。授業中、指名された私は、苦し紛れに「Es extraño que estoy aquí」と言ってみた。「私のようなレベルの者がここにいるのは奇妙です」と、自虐的ユーモアを込めたつもりだった。しかし、真っ赤なスーツ姿の先生はニコリともせず、「あなたの文章は変です」と冷たく言った。「どこがどう変なのですか?」と質問しても、「変、とにかく変なのです」と繰り返すばかり。取り付く島もない。変だと指摘して、その理由を説明しないなんて…。その先生の態度こそmuy extrañoだった。私は忙しさを理由にクラスに通わなくなった。そして3か月後、そのまま出発の日を迎えてしまった。

        

¡Hola! バルセロナ(2)

 

 成田空港午後10時。夜の闇の中をKLM機は離陸した。眼下の灯りがどんどん遠くなる。「あぁ、これでしばらく日本ともお別れ…」と、普通なら感傷に浸るところだが、それより何より私は疲れていた。

 

 正式にバルセロナ行きが決まったのが3か月前。2か月前に「さよならコンサート」を開き、3週間前に仕事を辞めた。大勢の生徒さんの引き継ぎ、長年住み慣れた部屋を引き払うための荷造り、急な話に驚く人たちへのご挨拶、その合間を縫ってのパスポート申請etc。海外用の大きなスーツケースを買いに行く、などという用事もあった。そんなこんなを必死で済ませ、やっと今、シートに座り込んでいる。夏休みを利用して学生さん達とマジョルカ島へ行くT先生が、私をバルセロナまで連れていってくれることになっていた。早くから計画を立てていた先生一行はエコノミークラスに詰め込まれていたが、後からオマケで参加した私は、幸か不幸かエコノミーに空きが無く、ひとり悠然とビジネスクラスである。

 

 とりあえず到着までは何もしなくていい、そう思った途端、猛烈な睡魔に襲われ、私は眠りこけていた。アムステルダムで乗り換え、またすぐに熟睡。一体どれだけ時間が過ぎたのだろう。初めての海外、ビジネスクラスでの優雅な旅を楽しむどころか、毛布を被ってただ眠り呆けているうちにバルセロナに着いてしまった。

 

 朝なのか昼なのか、よく分からない。T先生一行の後ろについて空港内をとぼとぼと歩いていると、いきなり英語ではない外国語のアナウンスが耳に飛び込んで来た。ダダダダダとまるで機関銃を撃つような勢い、単語と単語の切れ目も分からない。これは…ハッとした。分かっていたではないか、スペインへ行くのだ、もっとスペイン語を勉強しておくべきだった。荷造りより、買い物より、お別れ会より、とにかくスペイン語をやっておくべきだったのだ。途中で放り出したスペイン語クラスの情景がちらっと脳裏をかすめた。寝ぼけた頭が急に冴えてきた。おそるおそる空港のロビーを見回してみる。陽の光がひどく眩しい。「そうだ、私はスペインに来たのだ」初めて実感が湧いた。同時に、ヒタヒタと不安が押し寄せてきた。

¡Hola! バルセロナ(3)

 

 空港にはM先生夫妻が来ていた。私をバルセロナまで運んでくれたT先生とM先生は旧知の間柄。私はこれからM先生のもとで勉強することになっていた。皆でコーヒーでも飲む予定だったが、マジョルカ島行きの出発時刻が迫っていることが分かり、T先生一行はあたふたと行ってしまった。

 

 ロビーにはM先生と奥様と私、3人になった。私は東京で一度、来日したM先生に会っていた。しかしその時は、演奏会直後の慌しい楽屋で「よろしくお願いします」と短く挨拶しただけ。まともに話をするのは初めてである。「住む所はここです」私がおずおずと住所を書いたメモを差し出すと、「我が家から遠くないから一緒に乗っていこう」とのこと。私のスーツケースをさっさと自分の車に積んでくれた。

 

 空港を出ても景色など目に入らない。「とにかくスペイン語を勉強しなければなりません」私はM先生に訴えつづけた。スペイン歌曲を習うために来たのに今からスペイン語を勉強するとは何ごとか!などと反省する余裕もなかった。M先生は黙って私の言うことを聞いていた。

 

 念のためにお断りしておくが、これらの会話はすべて英語だ。お恥ずかしい話だが、この時点で私が自信を持って言えるスペイン語はHola、Adios、Graciasなど簡単な単語ばかりで、会話などまったく成立しなかった。「住む場所」も実は、出発の1週間ほど前に偶然見つかったものだった。「自分の友人のそのまた友人の友人の誰かがバルセロナで部屋を貸している」と、両親の友人が情報を提供してくれたのだ。「現地に行けばなんとかなる式」の留学は他人に迷惑をかけるだけ、と、カチカチに偉そうに考えていた私が、その迷惑をかける人の典型になっていた。

 

 車はバルセロナの中心部へ向かっているらしい。街の雰囲気、建物の様子、通りを闊歩する人たち…古い映画の一場面のようだ。「この辺りは、ゴシック地区」とM先生が説明してくれた辺りから道が狭く入り組んで来た。そして、おそろしく古ぼけた分厚い木の扉の近くで車が止まった。どうやらここが目的地らしい。

¡Hola! バルセロナ(4)

 

 ピソの4階のオーナー、壇氏には、出発前に生まれて初めての国際電話をかけ、バルセロナ入りする日を伝えてあった。空港から確認の電話をかけると(正確には、M先生が代わりにかけてくれた)、「お待ちしています」とのこと。とにかく着いた、のだ。エレベーターは無い。小窓からボンヤリと明かりが差し込むだけの暗い階段を4階まで登っていった。日本でいう5階だから、なかなか距離あある。ぎゅうぎゅうに荷物を詰め込んだ私の重いスーツケースは、当然のようにM先生が運んでくれている。「なるほど、西洋人とはこういうものか…」自らの窮地を忘れ、私は妙に感心してしまった。

 

 扉が開き、招かれて中に入ると、日本人とスペイン人計7、8人が「何だ、何だ」と、いきなり部屋から飛び出してきた。私達3人を取り囲み、もの珍しそうに眺めている。一種異様な雰囲気に、思わず言葉を呑み込んだ。M先生はまずスペイン語で、そしてチラッと私の顔を見て、今度は英語で「私はこの人の歌の教師だが、彼女はスペイン語を習いたいと言っている。何かよい方法をご存知だろうか?」と丁寧に尋ねてくれた。「それなら○○がいい」「いや、△△だ」彼らの中の日本人数人が、我先にと大声で、しかも日本語で喧々轟々騒ぎ出した。今度はM先生がポカンとしている。「スペイン語の勉強については彼らのほうがよく知っているようだ。いい所を教えてもらいなさい。9月になったら連絡するように」ワイワイガヤガヤに一区切りついたところで、M先生は私に言い置き、奥様と2人、帰っていった。時は7月の終わり。夏休み明けには歌のレッスンが始まる。

 

 壇オーナーが部屋に案内してくれた。木製の古びたベッドとクローゼット、それに小さな机と椅子がある。トイレ、シャワー、台所は共用とのこと。窓からは、隣の中庭が見える。なぜか卓球台があり、おじさんやお兄さんたちが茶色い小瓶(ビール!)片手にゲームに興じている。何とものどかな午後のひとときだった。

 

 「メグミさん、スープ食べますか?」ドアの外で呼ぶ声に目が覚めた。中庭の卓球を見ているうちに寝てしまったらしい。慌てて食堂へ出て行くと、壇オーナーと彼のスペイン人の奥さんが待っていた。テーブルの上には、お魚のスープとパン。お礼を言って食べかけた私に、壇オーナーがきっぱりと告げた「今日は着いたばかりだからスープを食べさせてあげる。だけど電話で説明したように、ここでは自炊。貴女もそれなりの覚悟があってスペインに来たのだろうから、明日からは自分のことは自分でしてください。とりあえず食べ物は、明朝ウチの奥さんと一緒にメルカードへ行って買えばいい」「はい。よろしくお願いします」スープを喉に流し込む。たまらなく悲しくなった。目の前の皿が空になれば、私には「食べるもの」が一切無いのだ。それもこれも貴女の責任です、ということだ。それなりの覚悟?そんなものが自分にあるのかどうか分からない。でもとにかく、何が何でも明日は食料を手に入れなければ…。そう決意させてくれた、壇オーナーの厳かな宣告だった。

¡Hola! バルセロナ(5)

 

 翌朝、朝食のパンとコーヒーを ”恵んで” もらったあと、檀氏の奥さんマリア・ドローレスの買い出しについて行くことになった。彼女は日本語が達者だ。意思の疎通に問題はないらしい。行き先はバルセロナ最大の市場、ボケリア(サン・ジュゼップ市場)。すごい迫力だ。アーケードに覆われた巨大な建物の中にあふれる肉、魚、野菜、果物、ナッツ、丸いチーズ等々、色とりどりの食料品。天上からぶら下がった丸裸の鶏や子豚。貫禄たっぷりの魚屋のおばさんは、あのとんでもなく大きなハサミで何を切るのだろう?広い空間を埋め尽くす人また人…。誰ひとり黙っている人間はいない。売り手も買い手も口角泡を飛ばし、派手な手振り身振りで、何か叫んでいる。

 

 「メグミさん、欲しいものを言いなさい」呆気にとられている私に、マリア・ドローレスが言った。欲しいものと言われても、ただただ驚くだけで何が欲しいのか分からない。ふと目の前を見るとハムがあった。「じゃぁ、このハムを」と私、「何グラム?」とマリア・ドローレス。日本ではハムをグラム単位でなど買ったことがない。「ええと…」口ごもっている私を無視して、彼女はさっさと300グラムを購入。同じように「ええと…」とモタモタしている間にピーマン1キロが私の持っていた袋に放り込まれ、「ミ、ミルク…」とやっとの思いで希望を伝えて1リットル入りの紙パックを買ってもらった。最後に彼女は「羊の脳みそ」なるものを買った。「壇はこれが嫌い。でも私は大好き。今日は彼がいないから、ひとりでお昼に食べるの。ウフフ、楽しみ」マリア・ドローレスの目がキラリと光った。当時、365日洋食でも平気な私だったが、彼女の怪しい微笑みを見た瞬間、自分が農耕民族であることを思わず実感した。

 

 くたくたに疲れて部屋に戻り、ハムとピーマンと牛乳をベッドの上に並べてみた。そこで初めてパンが無いことに気がついた。「パンを買いたいので午後に買い物に行くなら連れて行ってほしい」とマリア・ドローレスに言うと「午後にパン屋に行ってもパンは無い」とのこと。パン屋にパンが無い?どういうこと?と思うも、初めての体験に疲れ果て、質問する気力が湧かない。かくして私はその日、昼も夜も、牛乳を飲みながらハムとピーマンの炒めものを食べた。夕食時には、同じく間借り人の日本人男性が「コーヒー飲みますか?」とやってきて、自分のインスタントコーヒーをご馳走してくれた。あぁ、1杯のコーヒーのありがたさ!「明日はパンとコーヒーを買うぞ」私は決意を固めたのだった。

¡Hola! バルセロナ(6)

 

 ピソには壇オーナー夫妻のほかに3名の間借り人が住んでいた。私の隣の部屋にいるのは、インスタントコーヒーをご馳走してくれた日本人男性。仕事を辞めてスペインに来たという彼は、生活費を節約するべく毎日玉ネギを食べていた。奥の部屋にいるのは、イガグリ頭の日本人男子と恋人のリナちゃん。お皿を洗うのは洗剤が先か、水が先か、で、2人はいつも口論をしていた。

 

 バルセロナに着いて3日目、金曜日になった。壇夫妻も玉ネギ氏もイガグリ君とリナちゃんも、各々夜の予定で盛り上がっている。どうやら週末というのは、とても楽しいものらしい。さて、私はどうする?マリア・ドローレスについて買い物に行く以外、外に出たことがなかった。私はとんでもない方向音痴だ。地図を持っていても、その地図の向いている方向が分からなくなる。スペイン語が出来ないのだから、道を尋ねることが出来ない。つまり一度迷ったら、もう二度とこのピソへは戻って来られない。ひとりで出かけるのが怖かった。冗談を飛ばしあいながら、皆、イソイソと出かけていく。悲しくなった。仕方なく部屋でボンヤリと隣の中庭の卓球を見ていると、誰かがドアをノックした。イガグリ君だった。「僕らも今から出かけるけど、君、どうするつもり?ずっとここにいちゃダメだよ。来たからにはどんどん動かなきゃ。町でも歩いてきたら?」半ば心配顔、半ば呆れ顔である。イガグリ君とリナちゃんも出かけてしまい、4階はシーンと静まり返った。私は決心した。とにかく道をまっすぐ行って、どこかからその同じ道をまっすぐ戻ってこよう。それなら迷わないだろう。そうすれば、「出かけてきました」と、堂々と言えるではないか。

 

 100ペセタ硬貨3枚をポケットに入れ、玄関の鍵をかけ、真っ暗な階段を下りた。重い木の扉を開けて外へ出た途端、けたたましいクラクションの音が耳に飛び込んできた。狭い道にあふれる車、忙しく行き交う男達、母親らしき女性と手をつないだ可愛い女の子、地下鉄の駅へ駆け下りていく若者グループ、オシャベリに余念がないおば様達…。そこにあるのは、ごく当たり前の夕暮れの街角だった。一歩踏み出してみれば、もう私は風景の中にすっぽりと納まり、何の違和感もない。得もいわれぬ懐かしささえ覚えた。

 

 デパートらしき建物の前で、大好物のソフトクリームの売店を見つけた。喉がゴクリと鳴った。「75peseta」と張り紙がある。100ペセタ硬貨を出して25ペセタのおつりをもらえばいい。これなら買える!私は店員に、ソフトクリームを指差した。彼女はうなずき、グルグル巻きのソフトクリームを私に渡し、100ペセタを受け取り、25ペセタのおつりをくれた。予定通り、である。さらに「Gracias」と必死で言った私に「De nada」と笑顔で答えてくれた。やった!初の単独買い物大成功!だ。すっかり気をよくした私は、鳩でいっぱいのカタルーニャ広場のベンチに座る、などという冒険にも挑戦し、無事帰還を果した。誰もいない異国の古ぼけたピソで、ひとり留守番をしている自分が不思議だった。月曜日には、イガグリ君が私を語学学校へ連れて行ってくれることになっていた。

¡Hola! バルセロナ(7)

 

 週明け月曜日、イガグリ君が街中にある私立の語学学校へ連れて行ってくれた。彼自身が通って良かったから、とのこと。ピソから歩いて15分もかからない。レベルはもちろん初級、クラスは「月~金・毎日3時間コース」を選んだ。とにかく言葉が出来なければ話にならない。歌のレッスンが始まる9月までには何とかしなければ…。トンチンカンな私もさすがに焦っていた。

 

 その日からさっそく授業が始まった。生徒は、オランダ人の大男とシリアの美人姉妹、それに私の計4名。担当教師はプレイボーイ風のアントニオ、それに実直、勤勉、どことなく二宮尊徳をイメージさせるミゲルの2人だ。まずは全員の共通語、英語で自己紹介が始まった。「港の方へ行けば安くて旨いバルがある」「俺はいくつだと思う?」などと、アントニオは好き勝手なことを言っている。ミゲルは開口一番「サラマンカを知っているか?」と我々生徒に尋ねた。4人そろって「No」と答えると、彼は大げさに肩をすくめ、彼の故郷サラマンカがいかに素晴らしい土地であるかを滔々と語ってくれた。2人の奥さんもこの学校の教師だという。次は生徒が自己紹介する番だ。まずオランダ男が早口で何か言った。しかし喉の奥にこもった発音のせいか、ちっとも聞き取れない。「別に、聞いてくれなくてもいいぜ」とでも言いたげな、ふてぶてしい態度が見て取れた。シリアの美人姉妹、今度は蚊のなくような声だ。ショボショボと口を動かしているが、こちらも聞き取れない。3人とも夏休みを利用してバルセロナに滞在しているとのこと。まぁスペイン語が少し話せたらいいな、程度の気分らしい。

 

 私の番が来た。「スペイン歌曲の勉強に来た歌い手です」と言うと、全員が「Oh!」と声をあげた。美人姉妹は異星人でも見るように私を見つめ、オランダ男はニヤニヤ笑っている。「メグミはいくつ?学校はどうしたの?」困惑顔のミゲル。「大学を卒業して来ました」と答えると、彼はますます目を丸くした。「こんな小娘がもう大学を卒業している?スペイン歌曲を習うためにひとりでスペインへ来た?そんなバカな…」全員が無言の会話をしている。アントニオが口を開いた。「歌手なら、Bésame muchoを知っているか?」「もちろん。でも私が勉強する歌はジャンルが違います」「じゃぁ何を歌うんだ?」「グラナドス、ファリャ、モンポウ、他にもスペインの作曲家の歌曲作品が沢山あります」「・・・」この日本人の言うことを信じようか、信じまいか、アントニオとミゲルが顔を見合わせた。シリア姉妹はもう飽きてオシャベリに夢中、オランダ男は「アホらしい」という顔つきで窓の外を眺めている。ミゲルが急にニコニコして言った。「分かった!メグミは休暇を過ごしに来たんだね。バルセロナはおあつらえ向きの街だ。思いっきり楽しんで!」「・・・」私は理解してもらうことを諦めた。何者と思ってくれてもいい。とにかく早くスペイン語を教えて!と叫びたい気分だった。

¡Hola! バルセロナ(8)

 

 レッスン1週間目。英語での日常会話には苦労がなかったので、「英語でスペイン語を習うこと」についての不安を感じていなかった。しかし、これが大誤算だった。日本では日本語で文法を習った。「この文を現在進行形にせよ」と指示されて、~ingの文章を作る。しかし「この文を現在進行形にせよ」という指示そのものを英語で言われたことがない。つまり英語の文法用語を知らないのだ。「この文法は日本語で言う何にあたるのかな?」と、いちいち頭の中で置き換えながら、ミゲルの説明を聞かなければならない。ひどく疲れた。オランダ大男も、シリア美人姉妹も、その辺は問題がないらしい。涼しい顔で座っている。

 

 会話担当は、アントニオだ。誰かが前日の出来事をスペイン語で話し、これに対して他の生徒が質問する、というプログラムだったらしい。しかし、悲しいかな私達4人は、「きょうのあさ、アサガオがさきました」程度の文章さえ作れない。yo、tú、ustedが入り乱れ、動詞は活用せず、冠詞などこの世に存在しないも同然…。イケメン・アントニオはすぐに我々とのお付き合いに飽きてしまった。タバコを取り出し、「週末はどうするんだ?」などと話しかけてくる。授業の体を成していなかった。

 

 それにしても、大男の態度は尊大だった。彼の発音は英語もスペイン語も喉の奥にこもっていて、ひどく聞き取りにくい。そのくせ「What?」と聞き返しでもしようものなら、「これだからバカは困る」とでも言いたげな顔でこちらを見る。嫌な奴だった。美人姉妹はといえば、宿題を一切やって来ない。「何故やって来ないの?」ミゲルに問われると、「私達、貧乏だから辞書を買うお金がありません」と哀れっぽい目で訴える。「それは気の毒に…」生真面目なミゲルは同情していた。しかし、私は知っている。彼女達は毎日授業が終わるとEl Corte Inglésへ繰り出し、買い物にうつつをぬかしているのだ。「昨日買ったスカートは色がいい」「今日はバッグを探そう」休憩に入ると、2人は夢中で話している。授業中のショボショボした物言いとは打って変わった元気のよさ。周囲の思惑などまるで気にしていない。そして授業になると「私達、貧乏だから…」をまた繰り返すのだ。

 

 2週目の月曜日が来た。オランダ大男欠席。「メグミも週末、彼らと踊りに行ったの?」ミゲルに聞かれる。とんでもない!私は部屋に引きこもって宿題と格闘、ひたすら動詞の活用を暗誦していたのだ。それっきり大男は授業に現われなかった。別のクラスの金髪の女の子と毎晩飲み歩いているという噂だった。シリア姉妹と私、3人での退屈な授業にイライラする。そして週末、金曜日に教室へ行くと、ミゲルがニコニコして言った。「あのシリア姉妹は止めたよ。メグミひとりになっちゃったから、このクラスは今日でおしまい」そ、そんな…。

¡Hola! バルセロナ(9)

 

 「メグミは、ひとつ上のクラスに合流すればいい」こともなげにミゲルは言うが、私にとっては大問題だ。あのシリア姉妹、英語もスペイン語も頼りなく、そのくせ予習・復習・宿題を一切やって来ない2人との授業にはウンザリしていた。しかしだからといって、いきなり上のクラスに放り込まれて、私はついていけるのだろうか…?「さぁ教室へ行こう」ミゲルが立ち上がった。悩んでいる暇はなかった。

 

 教室には3人の生徒が待っていた。ドイツ人のピーター、スイス人のイーヴォ、そしてスウェーデン人のエレナだ。髪を長く伸ばしたピーターは、いわゆるヒッピーの風体。自称世界放浪中だが、東洋人が珍しいのか、私を頭のてっぺんから足の先までジロジロ眺める。長身のイーヴォは弁護士の卵。メガネをかけ、鼻の下に髭をたくわえ、いかにもインテリ風。まだ21歳とのことだが、どう見ても30代半ば、小さな娘さんが2人ほどいてもおかしくない雰囲気だ。大学で絵を学ぶというエレナは私と同じ年齢。目をクリクリさせ、ショートカットがよく似合う。お茶目な彼女が何か話すだけで、クラスが明るくなる。例によって、「Soy cantante」と自己紹介すると、彼らは目を丸くした。

 

 3人の英語はよく分かった。意思の疎通が出来る。ありがたかった。成り行きで無理やり進級させられた私の事情を知っていて、答えを間違えても「大丈夫、大丈夫」と励ましてくれた。何よりも「スペイン語を勉強しよう!」という意気込みがある。ホッとした。たしかに前のクラスより学習内容は進んでいる。しかし絶望的な差ではないようだ。動詞の活用では全員が「えー、うー」と詰まり、大笑いになった。

 

 授業が終わり、帰り支度をしていると、エレナが少し照れながら私のそばへ来て言った。「今日から友達ね。どうぞよろしく!」彼女に誘われるように男子2人もやって来た。「僕はずっと日本に憧れていたんだ」そう言ってイーヴォがくるりと振り向くと、何と!彼のTシャツの背中には「神風」の文字が!「アントニオは調子のいい男だ」「ミゲルのジーンズはどうしてあんなに丈が短いんだ?しかも革靴!」などと話が弾んだ。嬉しかった。初めてバルセロナで友達ができたのだ。

 

 8月も終わりに近づいた頃、マジョルカ島に滞在していたT先生から連絡が入った。まもなく帰国するので、バルセロナに寄るとのこと。T先生一行と待ち合わせ、旅行客よろしく市内観光に繰り出した。「日本の若い女の子が来ている!」壇オーナー、タマネギ氏、イガグリ君は喜んで、港近くの食堂へ案内してくれた。油まみれのテーブルと椅子、床いっぱいに散らばるゴミ、板で仕切られただけのトイレ…。なんとも凄まじい光景だ。揚げたてのエビやイワシにかぶりつき、日本語で思いっきりお喋りする。ほんの少し緊張が解けたような気がした。

¡Hola! バルセロナ(10)

 

 新しいクラスは順調だった。しかし私はまだ直接スペイン語を理解することが出来なかった。頭の中で一度日本語に翻訳する作業が必要なのだ。話す時も同じである。まず日本語で考え、それをスペイン語に翻訳して口に出す。必死に暗誦している動詞の活用も臨機応変というわけにはいかない。悪戦苦闘が続いていた。

 

 9時から12時まで授業を受け、学校帰りにサン・ジュゼップ市場で食料を仕入れる。「誰が最後ですか?」と尋ねてから列に並ぶルール、おつりを足し算で数える店のおばさん達 etc。日々新たな発見があり、買い物は楽しかった。だが、いかんせんスペイン語と英語で3時間戦った後である。市場へ向う私は毎日放心状態、疲れ果てていた。

 

 ある日、いつものように市場近くの狭い道をボンヤリ歩いていると、いきなり向こうから来たセニョーラが叫んだ。「危ない!後ろから車が来ている!」慌てて飛びのく私。横を一台の車がすり抜けて行った。あぁ驚いた、怖いなぁ。あ、目の前のセニョーラにお礼を言わなければ…。動転して言葉が出てこない。真っ白になった頭で必死に単語を探す。だが、出てこない。焦り、うろたえ、そのあげくにやっと言えた。「Gracias」と。

 

 情けなかった。Graciasさえすぐに出て来ない。私のスペイン語はいつになったら少しは目途が立つのだろう…。落胆の極み、お先真っ暗だった。重い足を引きずり、ピソへの道をとぼとぼ歩く。そこで、ふと先刻の光景が蘇った。耳に飛び込んできたセニョーラの叫び、とっさに横によけた私…。ハッとした。自分が翻訳をしなかったことに気付いたのだ。あの時、私は、セニョーラの叫びをスペイン語のまま理解し、とっさに横によけたのだ…。足が止まった。空を見上げる。もしかすると、私の耳と頭はスペイン語を捉えられるようになっているのだろうか…?そう思った瞬間、周囲の会話が勢いよく耳に飛び込んできた。単語ひとつひとつが鮮明に聞こえ、何故かそのまま意味が分かる。世界が一変した。何が起きたのだろう?嘆く私を見るに見かねて、スペイン語の神様が降りてきてくださったのだろうか?この日を境に、私はスペイン語が怖くなくなった。いや、むしろ楽しくてたまらなくなった。

 

 「9月になったら電話をするように」とM先生から言われていた。電話は苦手だ。身振り手振りの助けを借りることも、笑顔でごまかすことも出来ない。一度目の電話は英語だった。いよいよレッスンが始まる。ここで勇気を出さねば…。私は意を決し、二度目の電話に向けて準備を始めた。伝えたい内容を作文し、電話でも間違いなく伝わるよう何度も何度も読む練習をする。口が慣れたら、今度は紙を見ないで自力で言えるように…。二度目の電話当日、相手が私だと分かると、M先生はすぐに英語で話し始めた。「Un momento~ちょっと待ってください」M先生の言葉を遮り、私は宣言した「今日からスペイン語で話します」「…」受話器の向こうは無言。一瞬不安がよぎったが、エイッとばかりに準備してあったスペイン語の文章を一気に述べ立てた。「…」やはり無言。ダメだ、きっと通じなかったのだ。発音がまずかったのだろうか?文法を間違えていたのだろうか?あんなに練習したのに…。泣きたい気持ちをグッとこらえ、聞いてみた。「私の言ったこと、分かりましたか?」「…」またもや無言だ。しかし次の瞬間、寛大にも、M先生は答えてくれたのだ。「パーフェクト!メグミのスペイン語にありがとう!」と。  

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