top of page

¡Hola! バルセロナ(21)

 

 翌日登校すると、禿げ頭の学院長がせかせかと教室にやって来て言った。「Megumiは歌い手なのか?それなら歌詞の発音練習でもしよう」発音ならM先生にイヤというほどしごかれている。LがRになったり、uの母音が「うさぎ追いし~♪」のウになったり…。少しでも曖昧な発音があると、即、ダメ出しの「No」が出る。歌詞の母音を凝視して歌う癖がついた。たまに「Muy bien」が出ると本当に嬉しい。それに較べて目の前の学院長はどうだ?私に音読をさせながら、自分は腕時計ばかり見ている。やる気がないのが丸見えだ。音読のネタが尽きるともう何もすることがない。一週間は我慢して通った。が、毎日同じことの繰り返し。エレナもクリストフもクリスティーナも現われない。ついに私も通う気がなくなった。時間の無駄だ。止めよう。私がいなくなれば学院長はホッとするだろう、と思うと、腹が立った。

 

 クリスティーナとクリストフと私の3人で飲みに出かけたときのこと。ゴシック地区の路地裏をブラブラ歩いていると、一軒のバルの前にバイクが止まっていた。座席に黒い財布が置かれている。クリストフが手に取り中を開けてみると、分厚い札束が入っていた。辺りには誰もいない。私たちは思わず顔を見合わせた。バルの扉を開ける。店内は酔客でごった返し、ものすごい騒ぎだ。クリストフが財布を高く掲げ、大声で言った。「店の前のバイクに大金の忘れ物があるぞ!」ピタリと静まり返った店内。次の瞬間、ウォー!と歓声が湧きあがった。「お前、それを届ける気か?」「ありえない!」「なんて立派な奴だ!」次々と冷やかしの声が飛んで来る。スイスの陸上オリンピック代表だというクリストフは精悍な顔つきの青年だった。その彼が表情ひとつ変えず、財布をバルのおやじさんに渡した。ヒーローの風格だ。クリスティーナも私も鼻が高かった。絶賛の大拍手に送られ、私達はさっそうとバルを出た。夜風が心地いい。歩き始めてしばらくすると、クリストフがふと呟いた「俺たち、善人だよなぁ」…「本当だわ」「あぁ!善人、善人!」3人で笑い転げた。スーパーヒーローもお付きの女子2人も貧乏学生。あの分厚い札束が一瞬眩しかった。

 

 もうひとりの級友、スウェーデン人のエレナとはウマがあった。私と同じ年齢だというが、とてもそうは見えない。ショートヘアがよく似合い、大きな目がクルクルしている。好奇心旺盛な彼女は街の情報に詳しく、いつもあれこれとニュースを伝えてくれた。スペインに憧れて、憧れて、やっと留学が実現したという。私よりスペイン語がよく出来たが、発音にシャ・シュ・ショが混じる癖があり、なかなかスペイン人に通じない。「¿Cómo(何ですか)?」と聞き返されるたびに「失礼な!」と憤慨する。その様子がまたチャーミングだった。毎週土曜日には彼女と待ち合わせ、昼食をとりながらオシャベリをするのが習慣になった。街角のバルや安いレストランを探検し、あの店のパエリャは具が少ない、あの店のクレマ・カタラナは美味しい等々、Menu del día(本日のメニュー)の食べ較べをした。大好物になったクレマ・カタラナは店によって味も出来具合もずい分違う。トロトロの冷たいクリームの表面が薄く上品に固められた絶品もあれば、小麦粉のダマが舌に当たる、出来そこないの天ぷらの衣のような代物もあった。それでもなんでも最後にcortado(ちょっぴりミルクが入った濃い目のコーヒー)を飲めば、私たち二人は大満足。土曜日の午後が楽しみだった。スペイン人は家族で過ごす週末を大切にする。私たちのような独り者は、何となく居場所がないのだ。  

¡Hola! バルセロナ(22)

 

 当然だが、週末は毎週やってくる。土曜日はエレナとお昼を食べるにしても日曜日はやることがない。三樹子さんは「いつでも遊びに来てね」と言ってくれていた。しかしやはり、週末の訪問は躊躇われた。ひとりで部屋にいると何となく鬱々としてくる。ある日曜日、私はモンジュイックの丘にあるカタルーニャ美術館へ行ってみた。スペイン広場からてくてくと階段を登ったところに建つ王宮風の建物。午前中は入館無料だ。カタルーニャ各地の古い教会から丁寧に集め、復元された壁画が、いくつもの部屋に分かれて展示されている。「全能のキリスト」「十二使徒の前飾り」「聖母子像」etc。美術のことはさっぱり分からない私だが、なぜかこの空間は心が安らいだ。何時間いても、同じ絵を何度見ても、飽きることがない。カタルーニャ美術館で午前中を過ごし、帰りにスペイン広場の角でアイスクリームを買う。これが日曜日の過ごし方になった。

 

 週末以外の日には、よく三樹子さんの家へ遊びに行かせてもらった。8歳のお姉ちゃんはエキゾチック美人!3歳の妹は「メグミ」と発音できず、私を「ユグミ、ユグミ」と呼んでいた。テレビを一緒に見ている時、アニメの主人公が転んだのを見て、妹ちゃんが「Se cayó!」と叫んだことがある。「こんな小さな子どもでも、seを付け、ちゃあんと過去形を使っている…」動詞の活用に四苦八苦していた私はひどく感心したものだ。三樹子さん特製のプリンをご馳走になり、小さな娘さん達と遊ぶ。何よりの気分転換、息抜きだった。時々不思議なことが起きた。私が訪問する日に、彼女の家の何かが壊れるのだ。冷蔵庫や洗濯機が止まったり、リビングの大きな窓ガラスに亀裂が入ったり…。昔、デストロイヤーというプロレスラーがいた。私もデストロイヤー~破壊魔か?

 

 「3日目、3週間目、3ヶ月目の周期でホームシックに襲われる」日本を出る前に留学経験のある友人からそう教えられていた。正直なところ、3日目も3週間目も私は無我夢中、ホームシックを感じる余裕さえなかった。ただ、日本からの手紙は待ち遠しかった。メールなど無い時代だ。国際電話料金も今とは比較にならないほど高く、許される日本との絆は手紙だった。アパルタメントに毎日まとめて配達される手紙を、ポルテロのおじさんが玄関フロアにある各部屋別の郵便受けに配り入れる。外出から戻って郵便受けをのぞき、「アッ!来ている」の日もあれば、空っぽでガッカリの日もあった。「空っぽ」が何日か続いたある日、郵便受けを閉じて部屋に戻ろうとすると、「待て!」と、ポルテロのおじさんが追いかけて来た。私を指さし、「castigada(おしおき)だ!」と言う。意味が分からずポカンとしていると、おじさんは顔をクシャクシャにして、一生懸命笑いかけてくる。ハッとした。慰めてくれているのだ。毎日郵便受けの中身に一喜一憂している私を見ていたのだろう。「そうね。castigadaだから仕方がないわ」と返すと、「大丈夫だ。明日はきっと許してもらえる」とゴリラのように頼もしく胸を叩いてみせる。おじさんの不器用な優しさが心にしみた。以来、手紙が届いていない時の二人の合言葉は「castigada」になった。「今日もcastigadaだ」と厳かに言い渡され、ションボリ部屋へ戻ろうとすると、「ヤ~イ!だまされた」と、おじさんが悪戯っ子よろしく、隠してあった手紙を渡してくれたこともあった。スペインと日本、手紙は片道だいたい一週間。遠かった。

¡Hola! バルセロナ(23)

 

 滞在3ヶ月を過ぎた頃、異変が起きた。顔の表面が割れてきたのだ。割れる、とは大袈裟に聞こえるかもしれないが、実際に割れていた。まず顔全体の皮膚が乾燥して硬くなり、次に頬が切れ、その切れ目が日ごとに深くなった。痛く、痒く、何より見た目が恐ろしい。日本から持参した軟膏を塗っても治らなかった。火曜日が来たので仕方なくレッスンに出かけた。真っ赤に腫れた私の顔を見てM先生は絶句した。レッスンが終わるやいなや「明日午前中に来ることは出来るか?医師の往診があるから、その時に一緒に診てもらいなさい」と言う。「私は元々肌が弱い。大丈夫。きっとその内に治ります」と何度くり返しても、「病気だったら大変だ」と、M先生は譲らない。かくして私は、M先生宅の主治医のお世話になることになった。

 

 翌日おそるおそるお宅にうかがった。レッスン室に通されると、壁の写真のビクトリア・デ・ロス・アンヘレスがニッコリと微笑んでいる。「ここは本当にバルセロナ?」何だか夢を見ているようだ。お医者様が現れた。初老の紳士だ。私の割れた肌を観察し、お腹や背中を触診し、ふむふむと頷いて部屋を出て行った。廊下からお医者様とM先生の会話が聞こえてくる。「明日、彼女を診療所へ寄こしてください。彼女はスペイン語が話せますか?」「問題ありません」えッ?問題ない?M先生は勝手にあんな風に答えているけれど、私のスペイン語が病気の話に通用するとは思えない。どうする?病気よりスペイン語の方が心配だった。

 

 翌日、渡された住所を頼りに診療所にたどり着いた。名探偵ポワロの映画にでも出てきそうな風格ある建物の5階だ。立派な応接間風の部屋で、バルセロナへ来てからのこと、毎日の生活の様子等々について、問われるがままに答えた。悪い病気ではない、とのこと。薬局へ行くように、と、薬の処方箋を渡してくれた。「M先生には結果を伝えておく。何も心配いらない。ところで、surirという単語を知っているかな? 」「sufrir?」お医者様は微笑んだ。「Está sufriendo(貴女は苦しんでいる)。イエス・キリストは人類のためにsufrirした。貴女はひとりでバルセロナへ来て、スペイン歌曲のためにsufrirしてくれている。ありがとう」キリストがsufrir…何と畏れ多い比喩だろう。しかし、そうか…。私はストレスの塊になっているのだ。ただ夢中で、ただ必死に過ごした3ヶ月だった。くたびれて当然、と思うと、心が楽になった。むやみに頑張らなくてもいいような気がして来た。今でもsufrirという単語を見ると、あのお医者様の優しいまなざしを思い出す。

 

 処方箋を持って薬局へ行き、薬を出してもらう。これは問題なく出来た。しかし次なる課題が待っていた。薬局の貫禄たっぷりのセニョーラが注射薬を私に渡し、「これを持って注射屋へ行くように」と言うのだ。注射屋?それは何?無愛想なセニョーラはろくに説明もしてくれない。仕方がないので、メモに書かれた住所を頼りに注射屋が住むピソを探した。ごく普通のピソのひと部屋、そこが注射屋だった。看護婦なのか、ただ注射を打つだけの人なのか、よく分からない。とにかく彼女が私の腕に注射をした。「どうしてバルセロナにいるの?」彼女が聞くので、「スペイン歌曲の勉強に来たの」と答える。「それは素敵!(なぜかこの時はすぐに信じてもらえた)私はムルシア出身。ムルシアにもいい歌が沢山ある…」注射屋お姉さんは遠い目になった。

 

 次の日曜日には、M先生が昼食に招いてくれた。先生の奥様も父上も母上も、まだ若い息子さんまで私のことを心配してくれている。M先生の心遣い、ご家族の優しさが胸に沁みた。

¡Hola! バルセロナ(24)

 

 顔の割れは治らない。長年使っている化粧品を日本から持って来ていたが、ふと思い立ち、同じメーカーの「薬用」と称するものを送ってもらうことにした。航空便の速達だ。なんて高い化粧品!

 

 中央郵便局から「荷物到着」の案内が届いたので受け取りに行った。受付で名簿に自分の名前を書き込み、呼ばれた人が順番に荷物を受け取る。呼ばれるのを待っている間、皆、お喋りに夢中だ。荷物係のオジサンは喧騒に負けじと声を張り上げ、荷札に書かれている名前を読み上げる。オジサンの声など誰も聞いていないように見えるが、いざ自分の名前が呼ばれるとすぐに気が付き、荷物を受け取りに行く。流れはスムーズだ。早々に私も呼ばれるだろう、と、安心してベンチの隅に腰かけた。小一時間は過ぎただろうか。私の名前は呼ばれない。それどころか、私より後に来た人がどんどん荷物を受け取って出て行く。おかしいな、聞いてみよう、と思うも、荷物置き場と受付を何度も往復しているオジサンは、忙しさのあまり目が血走っている。怒鳴りつけられそうで、問いかける勇気が出ない。待って、待って、待って、待って…。待合室には誰もいなくなった。オジサンがジロリとこちらを見た。「何の用だ?」「荷物を受け取りに来たのです」「もう今日の分は終わった」「そんなバカな!私はずっとここで待っていたのに呼ばれなかった」オジサンはムッとしている。「あんた、名前は?」「メグミ・タニです」「タニなんて名前は名簿に無い」オジサンの背中越しに、棚にひとつだけ残っている段ボール箱が見えた。「あの荷物、見せてください」オジサンがしぶしぶ持ってきた。宛名書きは見慣れた父の字だ。「これです!ほら、ここに『タニ』って書いてあるでしょ?」「そうだ。これはタニの荷物だ。だけど名簿に残っている名前はハニ、メグミ・ハニだ。俺は何度も『ハニ』を呼んだが誰も返事をしなかった。じゃあ、あんたがハニなのか?」「ハニじゃなくて、タニです」「ダメだ。タニにハニの荷物は渡せない」名簿のTaniを何度も指さし、息巻くオジサン…。ここで、やっと分かった。私が中学英語以来ずっと使い続けて来た筆記体の「T」が、オジサンには「J」に見えたのだ。TaniではなくJani、つまりハニだ。そういえば「ハニ!ハニ!」と連呼するオジサンの声を聞いたような気がする。「ハニさん?ハニーさん、つまりMielさんか…」などと、どうでもいいことが頭をかすめたような気がする。「あんた、本当にハ二だな?嘘じゃないな?」しつこく念を押され、やっと荷物を受け取った。Tの書き方がまずいなんて、今まで誰にも言われたことがなかったのに…。段ボールを抱えてタクシーに乗り込むと、ドッと疲れが出た。

 

 こんなに苦労して受け取った薬用化粧品を使っても、顔の割れは治らなかった。口裂け女ならぬ顔裂け女だ。しかもやっかいなことに、朝起きてみなければ、その日の症状が分からない。完治したかのようにツルツルの日もあれば、鏡の中の自分の顔にギョッとする日もある。どんなに無残な症状も、お医者様に出してもらった軟膏を塗って30分するとスーッと引いた(それも怖いが…)。出かける日は、時間を逆算して軟膏を塗りこまなければならなかった。髪も伸びてきた。アパルタメントの向かいに美容院があったが、節約して行かなかった。後ろ髪を輪ゴムでくくり、前髪をキッチン備え付けのハサミで切ってみる。このハサミ、肉・魚用である。人一倍不器用な私がうまくカットなどできるはずがない。前髪は左右不対称のザンギリ、これもまた無残な姿になった。

 

 これといって困ったことはない。しかし私はひどく疲れていた。まさに、Estoy sufriendoだった。

¡Hola! バルセロナ(25)

 

 レッスンが進み、新しい楽譜が必要になった。M先生の指示で、ランブラスにある老舗の楽譜店「CASA BEETHOVEN」へ行く。この店では、日本のように棚の楽譜を自由に眺めて選ぶわけにはいかない。「これこれしかじかの曲を探しています」と店の人に言うと、分厚いファイルを出してくれる。その中からお目当ての楽譜を見つけ出す。つまり、「これこれしかじか」が言えなければ楽譜が買えない。ややこしい説明が必要なときには苦労した。以前、マリア・ドローレスがレンタル・ピアノの手続きに連れて行ってくれた楽譜店は、日本と同じシステムだった。棚に並んでいる楽譜を自由に手に取って眺め、選ぶことが出来る。自分で探せる手軽さ、黙って買える気楽さから、私はこちらの店を選ぶようになり、老舗楽譜店に足が向かなくなった。

 

 毎日の買い物もしかり、である。ゴシック地区に住んでいた時には、近くにある市場、ボケリアで食料品を買うのが日課だった。列に並び、威勢のいい肉屋や魚屋のセニョーラとそれなりに会話をし、いっぱしの気分を味わった。しかしアパルタメントは、隣に何でも屋、向かいにパン屋が一軒あるだけ。しかも市場と違って、店の人は何となくよそよそしい。少し離れたところにスーパーマーケットを見つけてからは、そちらで買い物を済ませるようになった。前のピソの住人・イガグリ君の教え「スペイン語が上手くなりたければ市場で買い物すること。スーパーは黙って買い物が出来るから便利だけど、それじゃいつまでたっても話せるようにならないよ」を忠実に守っていた私だが、その根性の砦も崩れかけていた。

 

 何をする気も起きない。11月も終わりのある夕方、ひとりで散歩に出かけた。スペイン広場のベンチにボンヤリ座っていると、色々なことが心をよぎる。バルセロナへ来てからの怒涛の4か月、出発前の日本での慌しい日々、笑顔と心配の両方で送り出してくれた家族や友人たちの顔…。「あぁ、私はこんなに遠くまで来たんだなぁ」しみじみと思った。寂しくも悲しくもない。何かポッカリ穴が空いたような気持だった。ふと目を上げると、目の前の何もかもが黄昏に浮かぶ一幅の絵画のように見える。丘の上のカタルーニャ美術館、向かいに見える国際会議場、ベンチで仲良く談笑する老夫婦、アイスクリーム売りのおばさん…。時が止まったような不思議な感覚だった。「そうだ、私は今、バルセロナにいるんだ!」突然、お腹に力が入った。大きな大きな神様の目が、地球の片すみでションボリしている私をジッと見つめてくれているような気がした。大丈夫!きっと何とかなる!どこからか、勇気が湧いてきた。

 

 12月に入ると、エレナの婚約者がはるばるスゥエーデンからやって来た。見るからに実直そうな青年だった。三人でオシャベリをするには英語が手っ取り早いのに、エレナは「ここはスペインよ。スペイン語で話さなきゃ」と譲らない。婚約者君のカタコト・スペイン語を交えた珍妙な会話で大笑いした。彼が帰ってほどなく、エレナは家賃節約のためにピソをシェアして住み始めた。シェアの相手は同じ大学のホセ。さっそく遊びに行ったが、私は何故か、このホセが好きになれなかった。

 

 そんなある日、エレナから伝言があった。「昨日久しぶりにスペイン語学校に寄ったの。メグミに大事な用があるから連絡するように、って」

¡Hola! バルセロナ(26)

 

 翌日スペイン語学校へ行くと、ミゲルが真剣な顔で言った「金曜日にパーティーがある。必ず来るんだ。来ないと大変なことになる」「大変なことって?」「それは来れば分かる。とにかく絶対に来るんだ」お調子者のアントニオの言葉なら聞き流して終わりだが、二宮金次郎風のマジメ人間、ミゲルがこんなことを言うのは変だ。何か事情があるに違いない。私は出席を約束した。

 

 「その日は大学の友達と約束があるからダメ」エレナにあっさりふられ、当日私はひとりで出かけた。要はクリスマス・パーティーである。今も昔も私はパーティーの類が苦手だ。しかも、ずっと授業を休んでいたので知り合いがいない。肝心のミゲルは「Hola!」と挨拶しただけで、あとは知らん顔。皆と飲んだり食べたりしている。「何が何でも来い」と言われた理由がさっぱり分からない。つまらない。退屈だった。もう帰ろうか…と思った頃、ゲームが始まった。ミゲルが向かい側の女子にボールをポーンと放る。ボールは何重にも紙に包まれているらしい。彼女が紙を一枚剥がし、そこに書かれたメッセージを読み上げる「赤いセーターを着た人」そして赤いセーターの青年にボールを放る。青年が紙を剥がすと今度は「会場で一番背の高い人」青年はアントニオにボールを放る。ボールを受け取ったアントニオが紙を剥がすと今度は「○△の人」…。この要領でボールは参加者の手から手へ次々と放られていく。最後のメッセージに当たった人は罰ゲーム!というルールだそうだ。ボールがかなり小さくなったところで出たメッセージは「黒ブチ眼鏡をかけた人」ボールを受け取ったミゲルは紙を剥がし、おもむろにメッセージを読み上げた「歌の上手い人!」そしてポーンと私にボールを放ってよこした。受け取って紙を剥がそうとすると…アレッ!もう無い。最後のメッセージだ。「Canta!Canta!」皆が一斉に手を叩きだした。ミゲルがウインクしている。やっと分かった。私に歌わせようという計画だったのだ。誰かが「日本語で歌って!」と叫ぶ。アントニオは「No!!メグミは俺の生徒だ。スペイン語がものすごく上達した。その証拠にスペイン語で歌うべきだ」と威張る。「え?あの子がcantante?ありえな~い」と大袈裟に肩をすくめて笑う奴もいる。それでは、と、私はクリスマスを祝い、『Noche de luz, Noche de paz(聖夜)』をスペイン語と日本語で歌った。歌い終えたあとの静寂、そして次の瞬間、ブラボー!ヒューヒュー!キャアキャア!大騒ぎになった。私を“自慢の教え子”に仕立て上げたアントニオは鼻高々、上機嫌。秘密作戦を完遂したセニョール二宮金次郎ミゲルは目をクリクリさせている。彼はいい人だった。「18歳に戻りたい」が口ぐせだった。ある時「メグミ、何歳に戻りたい?」と聞くので「戻る?とんでもない!早く40歳になりたい」と答えたらビックリ仰天、それこそ目をクリクリさせていた。それにしても、何故いつも彼のジーンズは丈がちょっぴり短めだったのだろう?極めてカジュアルなそのスタイルに、何故いつもフォーマルな黒の革靴を履いていたのだろう?

 

 クリスマス前、日本の知人から手紙が届いた。スペインへ行くので会いたい、とのこと。M先生のレッスンも休暇に入る。私は初のひとり旅を決行することにした。マドリードに住む友子先生のお弟子さんがピソに滞在させてくれるという。「仕事で迎えに行けない。地下鉄に乗って自分で来てください」と彼女から手紙が届いた。もう怖くはなかった。かつての壇オーナーの教え通り、この国に住むからには、自分のことは自分でしなければならないのだ。夜に寝台特急でバルセロナを出発、我ながらよく眠り、翌朝、無事到着した。…ここがマドリード!

¡Hola! バルセロナ(27)

 

 バルセロナとマドリードでは街の雰囲気がまるで違う。別の国にいるような気がした。そして寒い。友子先生のお弟子さんのピソにはテーブルの下に暖房機を置き、それを布でスッポリ覆う日本のコタツのようなものがあった。それでも部屋は冷え冷えとしている。

 

 I氏と面会した翌日、氏が参加しているツアーの方々と一緒にマドリード名所めぐりをすることになった。プラド美術館ではベラスケスやゴヤの名画を鑑賞。かの『ゲルニカ』にもお目にかかる。日曜朝のカタルーニャ美術館通いのおかげで、私は絵画鑑賞の恐怖から解放され、絵を観ることが楽しみになっていた。いいなぁ、と思う絵に見入っていると「立ち止まらないでください!」すかさずツアー添乗員から突っ込みが入る。アララ…。次の絵、その次の絵、と観ていくうちに思わず足が止まる。「そこの方、遅れますから先へ進んでください!」また添乗員の突っ込みだ。コワい、コワい…。レティロ公園では、全員整列して修学旅行のような記念撮影。公園を巡回中の素敵な制服を着たセニョールを見つけたI氏が「あの人と写真を撮れたら良い記念になるんだけど」と言うので、「お願いしま~す」と声をかけ、パチリと一緒にカメラに収まってもらう。「谷さん、スペイン語が話せるじゃないですか!」I氏はしきりに感心している。「写真お願いしま~す」くらい、誰でも言えるよね。

 

 「夜はサルスエラに行きましょう」I氏は張り切っている。「時間を調べるのも切符を買うのも、全部お任せしましたよ」そうか、私はI氏の自由行動専属ガイドというわけか。夕方、軽く食事を済ませ、劇場へ出かけた。席に着くと、斜め向い席の少女がジーッとこちらを見ている。私が笑いかけるとサッと目をそらし、また窺うようにこちらを見る。はにかんでいるのではない。表情がどこか引きつっている。隣にいる母親に話しかける声が聞こえてきた。「ママ、あの人、どこの国の人?」「中国か日本でしょ」「フ~ン」…やがて開演。舞台では古き良き時代の人情話が繰り広げられる。歌の合間の風刺のきいた台詞に私が思わず吹き出すと、斜め向かいの少女は目をまん丸にして母親に言った「ママ、ママ、中国か日本の女が笑っている」「そんなはずないわ」「ホンとよ。ほら、見て」私を指差す少女。「シ!黙りなさい。そっちを見ちゃダメ」わざとらしく叱る母親も母親だ。まるで化け物でも会ったような眼差しで、ジッとこちらを見る。あの態度は何だ?東洋人に嫌な思い出でもあるのだろうか?終演後、何とも複雑な気分で劇場を出た。念願のサルスエラに大満足のI氏。「あの女の子、可愛かったですね」と、上機嫌だ。あえて説明することもない、と、私は黙り込んだ。

 

 トレドへのツアーにも同行した。迷路のような細い路地、天に昇るキリストを描いたエル・グレコの絵、繊細な彫金、ゆったりとしたタホ河の眺め…。エル・グレコは、己が求める“赤”を表現するために、鳩の生き血を使ったそうだ。まさに中世にタイムスリップしたような街並み。ついフラフラと歩き出すと「列から離れないでください!」すかさずガイドの突っ込みが入る。そうだ、ツアーは続いているのだ。「お土産はこの店で買ってください!」「時間に遅れないでください!」「出発です!全員そろいましたか?」マドリードに帰り着くまで、ガイドの叫びは続いていた。 

 

 I氏最後の計画は「アランフェス宮殿訪問」である。決行の日は、ガイドと称する青年ならぬ中年のオジサンがついて来た。I氏が日本のお惣菜を出す食堂で知り合い、「アルバイトをさせてあげることにした」とのこと。マドリードに住んで10年、按摩師をしているという。「アランフェスなら任せてください」と自信満々だ。しかし、どこかうさんくさい。「どこの国にも、彼のような”帰りそびれた人”がいるんですよ」I氏がわけ知り顔で囁いた。

¡Hola! バルセロナ(28)

 

本留学日記連載中の2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。被災されたすべての方々に深い哀悼の意を捧げ、同年3月末発行予定「塾maga125号」ならびに同号掲載載予定の「¡Hola! バルセロナ(28)」は、永久欠番になりました。

¡Hola! バルセロナ(29)

 

 I氏が言うには、長く外国に住んでいると、どんどん居心地がよくなるが、それ以上何をするでもなく、かといって日本に帰国するタイミングも見つからず、身動きが取れなくなる人が沢山いるそうだ。「そんな風になっちゃいけませんよ。帰ると決めて来たなら、帰らなければ、帰れなくなります」I氏は私を諭した。よく分からないが、そういうものなのか…。

 

 予感的中。按摩オジサンは頼りなかった。アランフェス行きの切符を買うところから要領を得ない。「たぶん、この列車でいいはずです」なんて言いながら、ウロウロして姿が見えなくなる。I氏のお世話に加え、按摩オジサンを見失わないようにするというミッションまで増え、忙しいったらありゃしない。列車の中では、どこか嘘っぽいオジサンの身の上話が始まった。I氏は「それは大変でしたね」なんて、熱心に相槌を打っている。

 

 何とか無事にアランフェス到着。スペイン人ガイドの解説を聞きながら宮殿の中を見学する。「Wonderful!」「Schön!」「きれい!」興奮、絶賛する我々外国人観光客を前に、スペイン人ガイドは鼻高々だ。ここが『アランフェス協奏曲』の舞台…。ギタリストとの縁がきっかけでスペインの歌を始めた私には感慨深いものがあった。いくつかの部屋を回り、“陶器の間”の華やかな装飾を眺めていたとき、ふと、日本の禅寺が心に浮かんだ。余計なものを一切そぎ落とした世界、飾りという飾りをすべて捨てた究極の美…。あの凛とした空間に身を置きたい!突然、予想もしない衝動が強く湧きあがった。何も無い、しかしすべてが在る、そんな深い静寂がたまらなく懐かしい。絢爛豪華、色とりどりの装飾が施されたこの部屋で、突然こんなことを思うなんて…。自分で自分に驚いた。いくらスペインが好きでも、私はやはり日本人なのだ、と、思い知らされたような気がした。

 

 帰りは駅までバスに乗る予定だった。ところが、按摩オジサンは「あと2時間しないとバスは来ません」と言う。時刻表を見ると10分後に1本ある。それを言ってもオジサンは譲らない。「歩いた方が早いです」と言い張る。そりゃあオジサンの方がスペインに慣れている。しぶしぶ歩き出すと、ほどなく、後ろから来たバスに追い越された。ほらみろ!「まぁいいじゃないですか。急ぐ旅ではありませんから」と、I氏。「これでも食べながら行きましょう」オジサンがどこかから焼き栗を買ってきた。こういう時は素早い。口の中でモソモソする栗を食べながら、ひたすら夜道を歩いた。あぁ疲れた、疲れた。早くバルセロナへ帰りたい!(この後も何度かバルセロナを離れる機会があったが、3日もすると私は里心がついた。サンツ駅からアパルタメントに向かう坂を上ると、あぁ帰ってきた、とホッとしたものだ)。

 

 一週間ほどマドリードに滞在し、私は無事バルセロナに帰還した。心配してくれていたM先生と三樹子さんに報告の電話をかける。「メグミさん!帰って来たの!良かった!どうだった?」三樹子さんは電話口で叫んでいる。M先生は「Qué bien!」を連発。「家のみんながメグミの冒険話を聞きたがっているよ」と、食事に招いてくれた。バルセロナに待ってくれている人たちがいる…。嬉しい、嬉しい実感だった。        

 

 大晦日は三樹子さんの家で過ごした。大勢の友人が集まり、12時を合図に12粒のブドウを頬ばる。日付が変わると、次々と「Feliz Año Nuevo(あけましておめでとう)!」の電話が始まった。「彼女がかけている相手は離婚したご主人よ」「今の電話は、前の彼氏の今の彼女から」「あの子が話しているのは再婚してアリカンテにいる母親」etc。同じ「あけましておめでとう」でも、日本とは様子がずい分違う。明け方まで飲んで騒いで、元旦は寝正月。かくして新しい年が明けた。ヘッディング 

¡Hola! バルセロナ(30)

 

 新年早々、嬉しい出来事が重なった。まずひとつめ。カタルーニャ語の歌曲のレッスンが始まることになった。モンポウの『夢のたたかい』という作品がある。タイトル通り、夢のように美しく繊細な歌曲集だが、歌詞はカタルーニャ語。読み方が分からず、それまで歌えなかった。カザルスのチェロで名高い『鳥の歌』も事情は同じだ。レッスンが始まって間もない頃、歌詞がcastellano(スペイン語)に訳された楽譜を持参したことがあった。「No tiene sentido(無意味だ)」M先生はまったく取り合ってくれない。「ならば、catalán(カタルーニャ語)を教えて下さい」と言うと、「まだ早い。castellanoがきちんと出来ないうちにcatalánを歌うと、どちらの発音も曖昧になる」と、即、却下された。以来、『夢のたたかい』『鳥の歌』どちらの楽譜も、ピアノの上にうやうやしく鎮座したままになっていた。この憧れの2曲がいよいよ歌えるのだ。

 

 渡西前の私は、スペインという国に対して極めて大雑把な知識しか持っていなかった。castellanoとcatalánについても、何となく綴り方が違う、程度の認識しかなかった。振り返れば、本当に恥ずかしく申し訳ない思いでいっぱいだ。約半年の間にカタルーニャの歴史に触れ、catalánの存在の意味、バルセロナの人々のcatalánへの深い思いを知ることになった。カタルーニャの民謡、あるいはカタルーニャの詩人がcatalánで書いた詞を castellanoに訳して歌うことなど言語道断、ありえない話だった。地元の人達の日常会話はcatalánだ。M先生と話しているところにお客様が来ると、いきなりその場の会話がcatalánに替わる。今の今まで通じていた話がまるでチンプンカンプンになる。しばらくすると誰かが「メグミのためにcastellanoで話そう」と言ってくれる。castellanoに戻った途端、あら!不思議!また話が見えてくる…こんな具合だった。「catalánは発音がゴモゴモしていて嫌い!メグミ、よく歌う気になるわねぇ」と、エレナはcatalánを敬遠していた。彼女に限らず、最初からcatalánに近づかない外国人が多かったように思う。私には『夢のたたかい』『鳥の歌』という目標があった。あのメロディーを歌いたい!そのためには絶対にcatalánを避けては通れない。容赦なく無視される悲哀にもめげず、私は周囲の会話に耳を澄ませた。そのうちに何となくcatalánが分かるようになった。公衆電話で話している人のcatalánでの話の中身が理解できた時には、自分でも驚いた。現地で言語を体感する威力はすごい。M先生からレッスンのお許しが出たのは、ちょうどその頃だった。

 

 catalánが身近になり嬉しく思う一方で、私は、外国人が「Adéu(さようなら)」などと、得意げにcatalánを使ったときに人々が見せる、ある種冷ややかな反応に気づいていた。「Adiós」の時とは明らかに違う。「知ったような顔をして…」目の奥に無言の失笑がある。傍らにいる私の方が気恥ずかしくなった。歌うからには、そんな一瞥を浴びるような演奏はしたくなかった。いよいよcatalánの世界へ踏み込む…。武者ぶるいを覚えた。catalánはcastellanoより母音の種類が多い。そのせいか、歌詞の響きに抑揚、陰影がある。曲調も柔らかく抒情的なものが多い。歌っていると、ついロマンチックな気分になる。しかし「No!」レッスンでは細かくチェックが入った。「そのアはもっと狭く」「そのエはもっと口を縦に開けて」「そのtは読まない」「 Otra vez!」口をパクパク、顎はガクガク、目もパチパチ…。M先生のcatalán発音猛特訓が始まった。

 

 ふたつめの嬉しい出来事。3月に音楽院のホールでリサイタルを開くことになった。プログラムは、グラナドス、モンポウなどスペイン人作曲家の作品、と、M先生から指示が出た。スペイン人の前でスペイン歌曲を歌う、しかもM先生の伴奏で…!夢のようだった。「必ず、聴きにいくわ!」「お祝いのプレゼント、何がいい?」三樹子さんもエレナも大喜びしてくれた。

 

 さらに、もうひとつ、思いがけない話があった。“作曲家M先生”の楽譜出版のお手伝いである。

bottom of page