¡Hola! バルセロナ(41)
「動いちゃダメよ」念を押して、奥様は慣れた手つきで私の髪を切り始めた。器用なものだ。聞けば、ご家族みんなの髪をいつもカットしているとのこと。「頬っぺたの輪郭を生かさなきゃ」「前髪がほんの少し額にかかるようにしましょう」などと、楽しげに話しながらチョキチョキ、チョキチョキ…。「どんな具合?」M先生と母上がのぞきに来る。「ほら、いい感じでしょう?」「この辺をもう少し切ったらどうかな?」「それにしても黒い髪だね。日本人は海草を食べるからって聞いたことがあるけど、メグミも海草が好き?」3人とも何だかはしゃいでいる。当の私はといえば、長いケープをすっぽり被らされ、身動きが出来ない。話に相槌を打とうと思わず振り向くと、「No!」と奥様に叱られる。ベランダには鏡がないので自分の髪がどうなっているのか分からない。美容院というより、床屋さんの椅子に座らされた小学生の風情であろう我が身を想像しながら、ニコニコ笑っているしか仕方がなかった。「Ya está(出来たわ)!」小一時間もしたところで、奥様の威勢のいい声が響いた。「日本のmuñeca(お人形)みたい!」得意げな奥様。「よく似合うよ」と母上。渡された手鏡を見ると、丸みを帯びたおかっぱ風に仕上がりだ。そうか、こんな“普通”の髪型でいいのか…。日本では本番の日には必ず美容院に行っていたけれど…。M先生のレッスン室の壁に飾られたビクトリア・デ・ロス・アンへレスの写真を思い出す。たしかに、彼女はどんな演奏会でもごく自然な髪型だ。スペインではそれが習慣なのだろうか?でも、モンセラ・カバリエやテレサ・ベルガンサは、いつも「たった今、美容院から出てきました」みたいな髪型をしている。単なる好みの問題か?歌う曲の違いか?はたまた髪質の違いか?心の中で秘かに自問自答を繰り返していると、M先生がやって来た。おかっぱ頭の私を見て「Muy bien!」と笑顔。そして明るく朗らかに続けた。「あのmonstruo(怪物)みたいな頭よりずっといい」Mo、monstruo?やっぱり、やっぱりそう思っていたんだ…。
「演奏会でメグミに着てほしいものがあるの」奥様がクローゼットから出してきたのは、美しい白いレースのボレロだった。「母が祖母から受け継いだレースよ。亡くなる前に私に渡してくれたの。いつかきっとこのレースにふさわしい場が与えられると思っていた。メグミ、これを着て歌ってくれない?」奥様からお母様の話を聞いたことがあった。お父様が早く亡くなり、ひとり娘の奥様とお母様は母娘寄り添って生きて来たという。「私たちは“一滴の水のように”いつも一緒だった」と語る奥様は、目にいっぱい涙をためていた。その大切な形見のボレロを私に着せてくださるというのか。M先生も横で大きく頷いている。胸が熱くなった。Sala de Cienでの演奏会はもちろん素晴らしいけれど、M先生ご一家がこれほど喜んでくれている、そのことが本当に嬉しかった。
ボレロに何を合わせる?日本から持ってきた黒いロングスカートがある。ウエストぎゅうぎゅうは間違いないが何とか入るだろう。ボトムはこれで決まりだ。ボレロの中に着るものはどうする?黒が絶対に映えるけれど、私は安物のタンクトップしか持っていない。奥様に貸してもらおうにもサイズが合わない。新しく買うとして、さて、あの繊細なレースに合う品がうまく見つかるだろうか…。名案が閃いた!「私が編みます」「…」M先生も奥様もポカンとしている。私は編み物が好きだった。京都時代には、色々な糸を買い集めて自分好みのセーターをよく編んでいた。アパルタメントから地下鉄の駅に向かう道の途中に手芸用品店がある。前を通るたびに店に入りたい衝動に駆られたが、入れば必ず糸を買ってしまう。糸を買えば編み始めてしまう。バルセロナでの限られた時間を編み物に費やすのはもったいない気がしていたのだ。これで堂々と編み物が出来る!わくわくして来た。あの店で白いレースに合う材質の糸を買ってきて編めばいい。サイズもピッタリ。一番間違いがない。「メグミ、本当に出来るの?もしも間に合わなければ、演奏会で着るものがない」奥様は心配していた。「大丈夫です」私はその日のうちに微かに光る黒いレース糸と編み針を買い、ボレロにお似合いのノースリーブ・ブラウスをひと晩で編み上げた。
出版記念演奏会は、6月10日に決まった。『日本民謡集』は、a principios de junio(6月初旬)に納品される予定だ。何とも曖昧なa principios …。本当に間に合うのか?
¡Hola! バルセロナ(42)
6月に入った。「Sala de Cien演奏会」の伴奏合わせのためにM先生のお宅にうかがう。レッスン室の壁でニッコリ微笑むビクトリア・デ・ロス・アンへレスの写真。1年前、おそるおそるこの部屋に入った時から、どれほどこの写真に“バルセロナ”を実感し、勇気づけられたことだろう。すっかり慣れ親しんだこの生活がまもなく終わるとは、とても信じられない気がした。「ビクトリアも『Sakura』を歌ってみたいそうだ」とM先生が言っていた。私が書いた解説と歌詞のスペイン語訳を見て、ビクトリア・デ・ロス・アンへレスが歌ってくれるなんて!「頬っぺたをつねってみた。痛い!あぁこれは夢ではないのね」などという陳腐なフレーズが心に浮かぶ。バルセロナの街に、しかもSala de Cienという由緒ある場所に、日本の歌が響こうとしている。ちっぽけな私の存在など越えて、かけがえのない“奇跡”が実現されようとしている。夢なら覚めないでおくれ、そんな気持ちだった。
スペインと日本では「民謡」をとりまく事情がまったく違う。ファリャ「七つのスペイン民謡」、「ガルシア・ロルカ採譜によるスペイン古謡」のように、スペインの音楽家はスペインの民謡を大切にする。さらに、そのスペインの民謡の中でも、己の生地の民謡をとりわけ大切にする。カタルーニャ生まれのビクトリア・デ・ロス・アンへレスやホセ・カレーラスは、「鳥の歌」「聖母の御子」など、カタルーニャの民謡を自身の演奏会に積極的に取り入れ、歌っている。クラシックの声楽家が民謡を歌うのはごく普通のことだ。しかし、日本は違う。「民謡」というジャンルがあり、民謡専門の歌い手がいる。スペインの歌のメリスマと日本民謡のこぶしは似ている、と言われたりもするが、民謡歌手独特の声の張りと節回し!どう逆立ちしても、私は彼らのようには歌えない。M先生から初めて日本民謡の話を聞いた時、そのことが頭をかすめ、かすかな不安がよぎった。しかし、M先生の日本の歌へのアプローチには興味深いものがあった。優美な和の香りあふれる「さくら」、哀調をおびた「子守歌」、「音戸の舟唄」の豊かな響きは地中海ブルーのイメージと重なるか…。素朴に、素直に、憧れと尊敬をこめて、日本の音を感じ取ってくれている。どの作品にもM先生の日本への親愛の情があふれていた。日本人の私がしり込みをしている場合ではない。この際、私は日本の歌のmensajera(使者)となり、楽譜集のために全力を尽くし、私の声で、私の心で真っ直ぐに歌おう。そう決心したのだった。
予想通りというべきか、6月5日になっても7日になっても楽譜は納品されなかった。演奏会当日に間に合わなかった場合の対策について、M先生と奥様が相談を始めた。「当日の朝に届けば間に合う」「朝の何時に?絶対に遅刻できないわ」「何時に家を出る?」「それはリハーサルの時間しだい」「リハーサルが出来るかどうか分からない」「じゃあ時間の決めようもない」会話がグルグル回っている。「エヘン!」厳かに咳払いをして、私は言ってみせた「Si Dios quiere!」…一瞬の沈黙。M先生がゲラゲラ笑いだした。実はこれはM先生が私を諭すときの決め台詞である。「こうすればああなる、ああすればこうなる、こうなるかもしれない、ああならないかもしれない、でも…」と私の思考回路がグルグル回り出すと、M先生が厳かに言うのだ。「メグミ、人間に分かることはたかが知れている。Si Dios quiere(神の思し召しにかなえば)だよ」と。そうだなぁ、と、妙に納得して私は思考の迷路から脱出する、というわけだ。もとはと言えば、この演奏会の期日は私の帰国日に合わせて決まったものだ。それさえなければ、もっと余裕をもった日程を組めたのだ。ありがたく、そして申し訳ないことだった。
演奏会前日の6月9日、最後の伴奏合わせにM先生のお宅にうかがうと、テーブルの上に『日本民謡集』がうやうやしく鎮座していた。明るい朱色の表紙、父の毛筆による題字、表紙を開けば、私が一文字ずつ手書きした日本語のご挨拶文、同じ文章のカタルーニャ語訳、スペイン語訳、日本語の読み方の手引き、そして第一曲目の「さくら」…。美しい仕上がりだった。「この一冊目をメグミに捧げよう」M先生がさらさらとサインをしてくれた。「おめでとう」と母上。「明日の予行演習にメグミが衣装を着てみるのはどうかしら?」と奥様。ご家族みんな一様に安堵の表情を浮かべている。間に合ってよかった。本当によかった。「Vamos a trabajar(さぁ仕事を始めよう)!」M先生の号令で伴奏合わせ開始だ。いよいよ明日は本番である。
¡Hola! バルセロナ(43)
『日本民謡集』出版記念特別演奏会、当日。M先生のお宅に行き、先生、奥様、お母様と一緒に出発した。車は旧市街、ゴシック地区を目指して進む。壇オーナーのピソのすぐ近くも通り抜けた。引っ越した後も、この辺りは私の秘かなお気に入りの散歩コースだった。危ないから決してひとりでウロウロしてはいけない、と、あっちでもこっちでも忠告されていたが、私はゴシック地区を歩くのが好きだった。特にカテドラルの裏手あたりがいい。旅行客がまとめてバッグを盗まれた、などというニュースを何度も聞いたから本当に危なかったのだろう。でも、よれたジーンズにTシャツで顔はすっぴん、中途半端に伸びた髪を輪ゴムでくくった年齢不詳の東洋人にはスリも泥棒も近寄って来なかった。たまに街ですれ違う日本人旅行客は、「この人、中国人?日本人?変な人かもしれないから関わらないようにしよう」と、こちらを警戒している。望むところだ!気楽なものだった。私は心底解放され、堂々と正体不明人間になり、カタルーニャ広場から港へ向かう地区を足の向くまま、気の向くままに歩き回った。同じ場所でも、雑踏に紛れて歩く街並みと車の窓から眺める景色とでは見え方がまるで違う。思えば、こうしてM先生の車に乗せてもらうのは、1年前にバルセロナに着いた日以来だ。右も左も分からないまま壇オーナーのピソに運ばれて来た日が、もう10年も前のように感じられる。突然現れたろくにスペイン語も話せない日本人の歌い手の卵を、どんなご縁か、まるで家族か親戚の娘のように大切に守ってくれたM先生ご一家。どんなに感謝しても、感謝し足りない気持ちだった。
サン・ジャウマ広場に到着した。カタルーニャ自治政府庁とバルセロナ市庁舎が向かい合う、街の要の広場だ。市庁舎の入り口では守衛さんが怖い顔で近づいてきたが、M先生が名乗ると急に態度が変わり、我ら一行をうやうやしく先導してくれた。控室に荷物を置き、Sala de Cienをのぞく。もうグランドピアノが設置されている。M先生と一緒に楽器店で選んだあのピアノだ。部屋一面を覆う赤と黄色の壁掛け、天井のシャンデリア、左右に向かい合うジャウマ1世とサン・ジョルディの像…。誇り高き中世バルセロナの象徴、「百人会議の間」だ。
さっそくM先生とリハーサルに臨む。声がよく響く。日本の歌だから歌詞を忘れる心配もない。M先生のピアノはどんな時も絶対に歌を支えてくれる。赤と黄色の壁掛けに囲まれて歌う不思議な高揚感。「あぁ!ここはバルセロナ」あらためてそんな感慨が湧く。それにしても20世紀の今、この由緒ある部屋に日本の歌が流れるとは…。自分が当事者であることを忘れ、歴史の妙に感じ入る。リハーサルを終えて控室に戻ると、奥様が待ち構えていた。黒のロングスカートに少し光る黒のインナー、その上に母上の形見の美しいレースのボレロ。髪を丁寧に梳かし、最後に入念に全身をチェック。「Perfecto!」奥様はニッコリ微笑んだ。開場時間だ。Sala de Cienにお客様が集まり始めた。きちんとドレスアップしたセニョール、セニョーラ達。皆、きっと日本の歌を聞くのは初めてだ。どんな印象を受けるのだろう?誰よりも聞いてほしい三樹子さんはグラナダに出張中で来られない。ほかに知っている人はいないはず…。ふと客席の後方に目をやると、エッ?あれは?我が目を疑った。まさか?…いや、間違いない。M先生の父上だ!「音楽は好まない」と言って、息子であるM先生の演奏会にも決して出かけない父上。伴奏する相手がどんなに著名な歌い手でも、それがたとえビクトリア・デ・ロス・アンへレスでも、父上の態度は変わらない。いつもひとり家に残り、書斎で本を読んだり、小鳥と遊んだりしている。音楽というものに一切興味が無い様子だった。その父上がお洒落なスーツでめかしこみ、厳めしい表情で客席に座っている。驚いた。本当に驚いた。由緒ある百人会議の間での特別な時間に、父上も立ち会わずにはいられなかったのだ。
いよいよ開演だ。M先生と私は最前列に着席した。「ただ今より、日本民謡集出版記念特別演奏会を始めます」司会者が厳かに開会を宣言した。市からのお祝いの言葉に続いて、貫録たっぷりの文化担当の女性が登場。大演説が始まった。「そもそも文化とは…。そもそも音楽とは…。そもそも民謡とは…」長い。朗々と延々と続き、やっと終わった。次はM先生の挨拶だ。短い。こちらはアッという間に終わった。でもその短いメッセージの中で、「Megumi Taniの献身的な働きにより…」とわざわざ言ってくれた。ありがとうございます。「では、演奏に移ります」司会に促され、M先生と私はピアノの前に進み出た。
¡Hola! バルセロナ(44)
Sala de Cienは水を打ったように静まりかえった。1曲目〈さくら〉の前奏が始まる。端正、優雅、和の香りの奥にかすかな洋の陰影がにじむ。M先生の日本への思いが凝縮した美しい作品だ。私は大きくブレスをして歌い始めた。さくら、さくら…♪お客様の集中が伝わってくる。〈八木節〉〈お江戸日本橋〉〈ソーラン節〉〈稗搗き節〉〈こきりこ節〉〈五木の子守歌〉〈音戸の舟唄〉〈黒田節〉〈木曽節〉〈子守歌〉と続き、12曲目〈おてもやん〉の明るくリズミカルな後奏がポーンと弾んで終わった。一瞬の沈黙、そして次の瞬間、大拍手が湧きあがった。お客様が皆、立ち上がっている。あの厳めしい表情の父上も、もちろん先生の奥様も息子さんも!少し足の悪い母上は椅子に腰かけたまま、全身をゆすって拍手してくれている。司会者の厳かな閉会宣言が済むと、お客様が次々と舞台にやって来た。「素晴らしかった」「日本語は分からないけど、歌の心が伝わってきました」等々。沢山のお褒めの言葉にあずかる。M先生は大勢の人に囲まれ、嬉しそうにお礼を言ったり、日本の歌との出合いや出版の経緯を説明したりしている。大成功だ。よかった。本当によかった。
ホッとしているところへ、ひとりの青年が近づいてきた。「初めて日本の歌を聴きました。とても美しかったです。ところで、〈さくら〉は花の歌ですよね?不思議でした。あなたの歌に“祈り”を感じたのです。Sakuraは日本人にとって特別な意味をもつ花なのですか?」思いもよらぬ問いかけだった。「特別かどうかは分かりません…。でも春になると、日本人は皆、桜が咲くのを今か今かと待ちます。そして咲いた桜を心から楽しみ、散ってゆく桜をまた心から見送るのです」とっさに答えたものの、我ながら頼りない。そういえば、桜の樹の下に死体がウンヌンという文章があった。梶井基次郎だっけ?あの感覚は特別かもしれない。生と死は祈りに通じる?でも桜と言えば花見。祈りと花見との関係は?…頭の中がグルグル回る。次の言葉が出てこない。それでも青年は「なるほど。生まれて、咲いて、死んでいく。つまりvida(人生)そのものですね。だから“祈り”を感じたのかもしれません。日本の精神に憧れを感じます。ありがとうございました」と、お礼まで言ってくれた。ごめんなさい。何かもっと的確なコメントが出来ると良かったのだけれど…。心の中で詫びながら、あぁ外国で暮らすとはこういうことだ、と痛感した。スペインを知ってスペイン語を習得することはもちろん大事だけれど、それと同時に、いや、時にはそれ以上に、自国つまり日本のことをよく知って、しかも自分の言葉で語れなければいけないのだ。
夢の一日が終わった。市の担当者に見送られ、M先生の車で市庁舎を後にする。夜のバルセロナ。来る時と同じように、車窓から見える景色は、雑踏のなかで眺める街並みとはひと味もふた味も違う輝きを放っている。壇氏のピソは闇に沈んでいた。あの古めかしい扉の奥、真っ暗な階段を上った所には、一年前に飛び込んだ部屋がある。ボケリア市場で牛乳とピーマンとハムしか買えなかったバルセロナ初日、スペイン語との格闘、飽きもせず歩き回ったゴシック地区…。いつもコーヒーを飲むバルは、夜の装いに姿を変え、妖しく賑わっている。不思議な街だ。なぜ私はこんなにも心魅かれるのだろう?この得も言われぬ懐かしさは一体どこから来るのだろう?別れの日が迫っている。私は帰るのだ。どこへ?日本へ。そう、もう決めたこと。迷う余地はない。でも、時間よ、止まれ…。
翌日、昼食に招かれてM先生のお宅に行った。父上は例によって書斎で新聞を読んでいたが、私の顔を見ると立ち上がり、「昨日はおめでとう」と、固い握手をしてくれた。「メグミ、Monserratへは行った?」奥様に尋ねられた。「No」私はその辺がマメではない。京都時代も名所旧跡のど真ん中で暮らしていながら、積極的に見物に出かけることはなかった。千年の都も私にとっては生活の場である。誰かを案内する以外に、あらためて観光に行くという発想が浮かばなかった。「メグミにCatalunyaを味わってもらいましょう!」奥様の発案で、その週末はご家族と一緒にモンセラート修道院へ出かけた。お参りとも観光ともつかない人、人、人…。京都の清水寺を思い出す。修道院には、有名なLa Moreneta(黒い聖母像)がある。触れさせていただけば願いが叶うという。私も長い列に並び、優しい面立ちのマリア様にそっと指を触れた。次の週末は、リポールへドライブだ。途中の小さな村に寄り道をしながら、サンタ・マリア修道院に到着。正面玄関の見事なファサードに圧倒され、ボーっと見上げていると、「メグミ、写真!写真!」奥様が張り切って何枚もシャッターを切ってくれた。「少し斜めを向いた方がキレイに撮れるわ」「ダメ、ダメ。カメラの方を真っ直ぐ見ないで。何気なく空を見上げるのよ」美人の奥様は、写真のアングルの取り方に自信がある。髪をカットしてくれたり、大切な形見のボレロを貸してくれたり…。男の子しかいない奥様は、束の間の娘?である私と過ごす時間が珍しく、楽しかったのかもしれない。
ドライブの帰りに三樹子さん宅に寄った。急ぎの相談がある、と、連絡が入っていたのだ。
¡Hola! バルセロナ(45)
私のドライブ報告話をひと通り聞き終えると、三樹子さんが言った。「相談というのは、M先生ご夫妻のことなの。お二人をお茶にお招きしてはどうかしら?メグミさん、どう思う?」エッ!そんなこと、思ってもみなかった。三樹子さんにはM先生のことを話しているし、M先生にも三樹子さんのことを話している。つまり双方とも私を通じてお互いの存在を知っているけれど、直接の面識はない。M先生ご夫妻と三樹子さん、皆が一堂に会するなんて夢のようだ。しかし自宅にお客様を招くというのは厄介なものだ。あれこれ準備に手間がかかる。三樹子さんの好意に甘えていいのだろうか?「でも…」私が躊躇していると、彼女は事も無げに言った。「メグミさんをこんなに大切にしてくださった先生ですもの!友だちの私がお礼をさせていただくのは当たり前のことよ。Por favor。お願いだから、遠慮なんてしないでちょうだい」日本の知人を介してバルセロナで知り合った三樹子さん。初めて会った時から私を大きく包み、大事に守ってくれた。生活のあらゆる面で彼女が頼りだった。疲れたり、ションボリしたり、心が萎えた時は、いつもさりげなく慰めてくれた。「何かあったら、夜中でも何でもとにかく連絡して」彼女の言葉がどれほど心強かったことか。お世話になるばかりだったのに、最後に、M先生への感謝のお茶会まで考えてくれている。三樹子さん、本当にありがとう。「ウチになんか来てくださるかしら?そっちの方が心配だわ。だってビクトリア・デ・ロス・アンへレスの伴奏を弾いている方でしょう?かえって気を悪くなさらないかしら?」彼女が真顔で言う。「大丈夫!」M先生はそんな人ではない。私には自信があった。それどころか、大作戦に胸がドキドキする。翌日レッスンに行って伝えると、M先生は大いに驚き、喜んで招待を受けてくれた。奥様は興味津々の様子で私を質問攻めにした。「ミキコは何歳くらいの人?家族は?ミキコとメグミは昔から友だちなの?」etc。
約束の日、三樹子さん宅にM先生ご夫妻がやって来た。挨拶を交わすと、もう初対面とは思えない親しさ。オシャベリな私がそれだけ両方に両方の話を伝えていたということだ。三樹子さん心づくしのオードブル、サンドウィッチ、特製プリンをいただきながら話が弾む。音楽、絵画、趣味、スペインのこと、日本のこと、三樹子さんの可愛いお嬢ちゃんのこと…。三樹子さんはジャンルを問わず“音楽”を愛していた。プレスリーからリセウ劇場のオペラまで、熱く語る彼女にM先生ご夫妻が感心している。「実は、ミキコはギターの弾き語りが上手なの」私が言うと、「オー!ぜひ聴かせてほしい」と、先生も奥様も身を乗り出した。「アラ…どうしましょう」ちょっぴり照れながら、愛用のギターを取り出した三樹子さん。「では、歌います。まぁビクトリア・デ・ロス・アンへレスのようなわけにはいきませんけど」お茶目に前置きをして、娘さんのために作った子守歌を弾き語りしてくれた。愛情いっぱいの歌詞、優しいギターの音色、ゆったりとした三樹子さんの声…。夕暮れのリビング、柔らかいソファ、三樹子さんの歌に聴き入るM先生と奥様と私…。まるで時が止まったような、穏やかで幸せな午後だった。
後日、M先生が私に言った「ミキコは人生のartista(芸術家)だね」彼女の人となりを表すのに、これほど的を射た表現はない。彼女のあの寛容さはどこから来るのだろう。彼女がたどった波乱万丈の人生。どんな時も、どんな事があっても、絶対に人間を信じ、真実を信じ、前を向く。あふれる愛、真っ直ぐな心。姉のような、保護者のような、親友のような、まさにかけがえのないamigaだった。私の無謀な留学が稀に見る幸せな経験になったのは、M先生と三樹子さん、ひとえにこの2人との出会いのおかげだ。
帰国3日前、いよいよ最後のレッスンの日がやって来た。次の日からM先生は仕事でバルセロナを離れる。戻ってくるのは私の帰国の翌日だ。レッスンが最後になるだけではなく、M先生のお宅に伺うのもご家族にお目にかかるのもこの日が最後、そんなスケジュールになってしまった。奥様は帰国の日に空港まで見送りに来てくれるという。Sala de Cienでの特別演奏会が終わった後も、M先生は忙しい時間の合間を縫ってレッスンをしてくれた。残された時間はわずかだ。あの歌もこの歌も歌いたかった。私にとっては1曲1曲が大切な宝物だ。日本へ帰って、自分ひとりで歌い、守って行くことが出来るのだろうか?東京と京都での帰国記念リサイタル開催が決まっている。M先生は「心配ない」と言ってくれたけれど、他のピアニストの伴奏で歌ったらどうなるのだろう?漠とした不安を感じながら、私はまだ帰国を実感できずにいた。来週も再来週も、1か月後も1年後も、その先もずっとずっとこの幸せな日々が続いてくれるような…。リビングで母上と話していると、M先生がいつもとまるで変わらない口調で言った。「Vamos a trabajar(さぁ仕事を始めよう)!」
¡Hola! バルセロナ(46)
レッスン室に入ると、M先生が言った「来年の8月は何をしている?」そんなこと、分かるはずがない。帰国記念リサイタルを開くこと以外、何の目途も予定もないまま、私は日本へ帰ろうとしているのだ。来年の夏に何をしているかなんて、こっちが聞きたいくらいだ。「さぁ…」「市の担当者から、来年のGrecにメグミを招きたい、という話があった。来る気はあるか?」Grecとは、毎年バルセロナで開かれる夏の音楽祭である。ほぼ1ヵ月に亘り、バルセロナ市内と近郊にあるホールで沢山の演奏会が開かれる。そのなかのひとつに私を招聘してくれるというのだ。何という幸せ!「もちろん来たいです。でも…」不安がよぎった「伴奏はどうするのですか?日本から伴奏者を連れてくるのですか?」「¡Qué va!何言ってるんだ。もちろん私が弾く」嬉しい!1年後にバルセロナに戻って来られる!しかもM先生の伴奏で歌えるのだ!「来ます。何が何でも来ます!」どこにいようが、何をしていようが、絶対に飛んでくる!あぁ神様、ありがとうございます。
「ではそういうことで。詳細はまた連絡する」いつものように、さっさとピアノの前に座るM先生。私も慌てて楽譜を取り出した。帰国記念リサイタルで歌うグラナドスやロドリーゴの歌曲を聴いてもらう。ひと通り歌い終えると、M先生は大きく頷いて言った「メグミはメグミの歌を歌えばいい。No te preocupes(何も心配いらない)。一年間本当によく勉強してくれた。ありがとう」ありがとう、は、こちらの台詞だった。私はわがままな生徒だ。もしもM先生が尊敬できない先生、人間味のないイヤ~な先生だったなら、いかにスペイン歌曲が好きであろうと、いかにピアノ伴奏が巧みであろうと、決して真面目に勉強しなかった。大学時代、まさにこの理由で授業を放り出した前科がある。私は、自分のそういう気まぐれさをよく知っている。スペイン歌曲を通して、M先生は私の心の奥の“音楽”を目覚めさせ、日本では味わうことのなかった“歌う喜び”を教えてくれた。本当に幸せな師との出会いだった。「渡すものがある」M先生がピアノの陰から何かを取り出した。「ご褒美だよ」…それは、レッスン室に入るたびに見上げていたあの写真、ビクトリア・デ・ロス・アンへレスとM先生の演奏会の写真だった。そういえば、と、見上げると、壁のいつもの場所が空っぽになっている。しかも写真には「Megumi Taniのために ビクトリア・デ・ロス・アンへレス」と、サインが入っていた。「ビクトリアにメグミが帰国することを伝えたら、快くサインしてくれた。日本に帰ってもずっとスペインの歌を歌い続けてほしい、と、言っていたよ」M先生が伴奏を務めているといっても、私にとってのビクトリア・デ・ロス・アンへレスは、どこまでも天上のDiva、憧れの存在だった。そのDiva直筆のサインを貰ってきてくれるとは…。気が付かないふりをしながら、実はM先生は、いつもこの写真を見上げる私の心に気づいていたのだ。言葉が見つからなかった。本当にお別れなのだ…。初めて実感が湧いた。その時が来たのだ。
「Quina tristesa fa(なんという寂しさだろう)」不意にモンポウの『Neu』の一節が口をついた。こんな時に歌詞が、しかもカタルーニャ語が出て来るとは自分でも驚いた。言葉というのは不思議なものだ。必死で格闘するうちに、いつの間にか脳と心の中でワインのように?熟成されているらしい。「Res no és mesquí(悲しいものは何もない)」M先生がカタルーニャ語の歌詞で答えてくれた。留学先がバルセロナでなければ、カタルーニャ語の歌を学ぶことはなかっただろう。『鳥の歌』を歌うこともなかっただろう。私をすっぽりと受け入れてくれた街バルセロナ。さようなら、愛しい日々…。思い出がいっぱいにつまったレッスン室をもう一度ゆっくり見まわす。深く優しい音色を奏でてくれたピアノ、楽譜がぎっしりと並んだ窓際の本棚、 壁を飾るご家族の写真…。M先生はニッコリ微笑んだ。そして、もう一度言った「メグミはメグミの歌を歌えばいい。No te preocupes!」
リビングではご家族が待っていてくれた。「メグミはバルセロナに家がある。来たい時にはいつでも自由に来られる。私達はいつでも歓迎する。そのことを決して忘れないように」厳めしい顔の父上はそう言って固い握手をしてくれた。「メグミは僕ら家族にとって特別な人さ。元気でね。また必ず会えるよ」息子さんはちょっぴり照れている。「寂しくなるね。いつでも帰っておいで」母上はそう言って私を強く抱きしめた。突然現れた無鉄砲極まりない日本人の小娘を、まるで身内のように大切に守り可愛がってくれたM先生のご家族。ただただ感謝の思いでいっぱいだった。「明々後日、空港で会いましょう」奥様が帰国の飛行機の時刻を確認した。涙は似合わない。「Me voy(行きます)」「Hasta la vista」そう、Hasta la vista…また会う日まで。背中で、ドアが閉まる音がした。私は通い慣れた階段をゆっくりと降りた。
¡Hola! バルセロナ(47)
帰国2日前、朝から掃除と洗濯に追われた。リビング、寝室、バスルームと床から壁までピカピカに磨き上げる。脱水の大振動で勝手に踊りまわる洗濯機も今日まで何とか止まらずに動いてくれた。シーツやタオルなど、部屋備え付けの布ものを全部放り込む。この部屋は陽当たりが悪いので、早く干さないと夕方までに乾かない。鍋、食器、ナイフ、フォークその他の備品もきれいに洗い直した。エレナとイーヴォ、ピーターが遊びに来た時のことをふと思い出す。「抹茶入り玄米茶」に砂糖をたっぷり入れて「これは美味しい!」と喜ぶ三人に呆れたっけ…。家事を済ませたらもう午後1時前。大変だ。慌てて銀行口座の解約に行く。戻ると、すぐにレンタルピアノ引き取りの業者がやって来た。青い作業服を着た親分と子分の2人組。軽口をたたきながらピアノを部屋から運び出したものの、さて、エレベーターに収まらない。「来た時はどうやって運んだ?」「もちろん、このエレベーターで」「変だな」エレベーターが4階でずっと止まりっぱなしになっているのを不審に思って、ポルテロのおじさんが上がって来た。「何をモタモタしているんだ!お前たち、上手くやれ」なんて威張って指示をしている。しかし、立てても寝かせても斜めにしても、ピアノは収まらない。「なんてこった」親分と子分は舌打ちをして、太いロープでピアノを体にくくり付けた。非常用の階段を降りるのだ。この階段、真っ直ぐではない。狭い螺旋階段である。少しずつ角度を変えながら、慎重に1段、また1段。4階というのは日本の5階にあたる。地上階の遠いことよ…。やっとたどり着いた。ハァハァ。親分も子分も息があがり、額から汗が噴き出している。イヤ味のひとつも言われるな、もしかすると追加料金を請求されるかも…。ところが、なぜか親分は上機嫌。「ネェちゃん、次の楽器はフルートにでもするんだな」と、黄色い歯を見せてニンマリ笑い、さっさと引き上げてくれた。助かった。ピアノが消えた部屋はぽっかりと穴が開いたようだ。洗濯物をきちんとたたんでクローゼットに収め、スーツケースに荷物を詰める。半分以上が万が一の紛失を考えて船便に入れなかった楽譜だ。これだけは絶対に持ち帰らなければならない。ひと通り準備が終わった。静かな夜、もう何もすることがない。バスタブにお湯をはりお風呂に入った。スペインにすっかり馴染んだ私も朝シャワーの習慣だけは身につかなかった。明朝、不動産屋が来る。引き渡しには三樹子さんが一緒に立ち会ってくれることになっていた。明日の夜は彼女の家に泊めてもらう。最後の最後まで、ここぞ、という時は、いつも三樹子さんが頼りだった。
翌朝早くベビーカーを押した三樹子さんが到着。まもなく不動産屋がやって来た。部屋中をジロジロと見まわし、ソファやベッド等の家具、クローゼットの中の寝具、キッチンの鍋、食器、サイドボードの引き出しの中まで入念にチェックしている。「メグミさん、余計なこと言っちゃダメよ」私に日本語で念を押してから、三樹子さんは不動産屋にきっぱりと言った「掃除も洗濯も完璧です。壊した備品も一切ありません」本当はお皿の一枚の端っこがほんのちょっと欠けちゃったんだけど…。「ふん」と不動産屋。何かケチをつける物はないかとしつこく調べていたが、結局何も見つけられず、引き渡しの手続きは無事終了した。鍵を返す。「ドアは開けたままで」という不動産屋の声に促され、ガラガラとスーツケースを引っ張って部屋を出た。玄関にはポルテロのおじさんが待っていた。「またバルセロナに来い。来たら必ずここに寄るんだ。約束だぞ」おじさんは、いつになくシンミリしている。「寄らなかったらcastigadaね」我らの合言葉を返すと、おじさんはやっといつもの笑顔を見せた。「そうだ、castigada!」おっちょこちょいだけど、いつも私のことを気にかけてくれたポルテロのおじさん。ありがとう。お世話になりました。
その夜は三樹子さん宅でお別れの夕食をした。「メグミちゃん、お元気でね」関西なまりのカタコト日本語を話すご主人、美人のお姉ちゃんと私の名前を最後までユグミと呼んでいた小さな妹。明日でお別れとはとても信じられない。「私、ちっとも寂しくないわ。お互い生きていれば、どこにいても繋がっている。必ずまた会える。ね?そうでしょう」三樹子さんの言葉には頼もしい力があった。そう、繋がっている。どんなに遠く離れていても、きっと、ずっと、繋がっている。三樹子さん、本当に本当にありがとう。
翌朝、三樹子さんと一緒に空港へ向かった。彼女は私を見送った後、そのまま仕事でマドリードへ飛ぶことになっている。空港に着くと、ひと足先に到着していたM先生の奥様が手を振って迎えてくれた。まず搭乗手続きを、と、カウンターに向かうと、何やら様子が変だ。大勢の日本人客が大声で騒いでいる。案内嬢ならぬ案内セニョーラの冷たく言い放つ声が聞こえて来た「この便は今日は飛びません」
¡Hola! バルセロナ(48)
「〇〇便に乗るんですけど…」「No」「〇〇便は…」「No」ニコリともしない案内セニョーラに突き放され、皆、すごすごと退散してくる。いったい何があったのだ?とにかく事情を確かめねば。「この便が飛ばないというのは本当ですか?なぜ飛ばないのですか?」セニョーラは表情ひとつ変えずに答えた。「機材に不具合が見つかったのです。フライトは明日の同じ時刻に変更になりました」まさかの事態だ。スペインではこういう場合、どんなに抗議しても無駄だ。何をどう必死に訴えても事態は決して変わらない。さっさと諦め、次にどうするかを考えるのだ。と、当然のように思いをめぐらせている自分に驚いた。私の思考回路は目の前の日本人グループと明らかに違っている。それどころか、彼らの言動に少なからぬ違和感を抱いている。郷に入れば郷に従え、というが、私は郷に入って郷に従ったどころか、すっかり郷に染まりきってしまったらしい。カウンターから少し離れたところで幾つかのグループに分かれてブツブツ言い合っている日本人は、事情を理解しているのだろうか?余計なお世話と思いつつ、中年カップルの女性の方に声をかけた。「この便、明日の同じ時刻に飛ぶそうです」「エッ?」ジロジロとこちらを見る。警戒しているのだ。これまでにも似たような経験をした。街で、困っているのかな、と思って日本人に声をかけると、たいていの場合、「いえ、大丈夫です」と、そそくさと離れていく。いきなり不信感を露わにする人もいた。よほど私の風貌が怪しいのだろうか?それとも、留学生くずれの変な女に騙されないよう用心しているのだろうか?「機材に不具合が見つかったので整備をやり直すそうです」「本当にそう言っているの?」「はい」私がうなずくと、女性は連れの男性の耳元で何かささやいた。すると彼はチラッと私を見て、完全に無視し、いきなり大きな声を張り上げた。「皆さん、落ち着いてください。この便は機材に不具合が見つかったので飛びません。整備をやり直し、明日の同じ時刻に出発します」まるで、我こそはこの窮地を救うスーパーマンなり!的パフォーマンスだ。呆れた。「なぜすぐに整備できないの?」「きちんと説明してもらわないと困る」「貴方、スペイン語が出来るんですね。係の人に詳しく聞いてもらえませんか?」飛び交う罵声、怒声…。「いや、私は…」むにゅむにゅと口ごもるインチキ・スーパーマン。ほら見ろ!もう親切にしてあげないから。業を煮やした別の男性がカウンターに近づいてカタコトのスペイン語で言った「私は今日戻らないと仕事に間に合わない。困ります」「無理に飛んで墜落する方がいいのですか?」にべもなく言い返すセニョーラ…。延々と騒ぎ続けている日本人のかたまりを離れて、私は奥様と三樹子さんのところへ戻った。
「どうぞ今夜もウチに泊まってちょうだい。娘たちも喜ぶわ」事情を話すと、三樹子さんはすぐに言ってくれた。ありがたい。しかし彼女は今からマドリードへ出張で留守。ご主人の帰りは遅く、それまでお嬢ちゃんたちは祖母の家に預けられているという。泊めてもらうにしても時間の目途がたたない。「ありがとう。でも今夜はどこか近くのホテルを探して泊まるわ」「なぜこんな時に出張が重なっているのかしら。ごめんなさいね」私たち2人のやりとりを聞いていた奥様が事もなげに言った。「ウチに泊まればいいわ。ミキコ、心配しないで。メグミは私が連れて帰って明日また空港に送ってきます。貴女は安心してお出かけなさい。いいわね?メグミ」いいも悪いもなかった。しかし、またもや、まさかの事態だ。いくら何でもそんな好意に甘えてよいのだろうか…。マドリード行きの便の出発時刻が迫っていた。事態は急展開、私が三樹子さんを見送ることになった。「可笑しな具合になったわね」「最後に飛行機まで止めちゃうなんて、まったくメグミさんらしいわ」大笑いしながら私たち二人はしっかり抱き合った。「元気でね。必ずまた会いましょう。いいえ、必ずまた会えるわ」明るく力強い言葉を残し、三樹子さんは搭乗口に消えていった。
奥様と2人になった。ご自宅に泊めていただくことになるとは想像もしなかった。「ありがとうございます」あらためてお礼を言うと、奥様はニッコリ微笑んだ。「今日はご褒美の1日よ!まずコーヒーでも飲みましょう。それから買いたい物があるの。メグミ、付き合ってくれる?あ、その前に家に電話をしなきゃ。今夜メグミが家に泊まりますってね。みんなビックリするわ」そういえば、と、奥様と私は同時に気が付いた。24時間後のフライト時刻のその少し前に、M先生が仕事先から帰ってくる便が到着するのだ。もしかすると空港でもう一度M先生に会えるかもしれない。飛行機が丸1日遅れてくれたのもご褒美か?などと、虫のいい考えが心をよぎる。Si Dios quiere…どうぞ神様、quererしてください!
¡Hola! バルセロナ(49)
奥様と私は空港のカフェテリアでコーヒーを飲み、街で買い物をして、M先生のお宅に帰った。途中で電話を入れてあったので、父上も母上も息子さんも「おかえり」と、まるで朝に出かけた家族が夕方に帰って来たかのように迎えてくれた。母上特製のヨーグルトソースが添えられたサラダと具沢山のスープで夕食をいただいていると、電話が鳴った。奥様が悪戯っ子のように目をクリクリさせながら受話器を取る。M先生だ。「メグミは無事に帰国したか、ですって?ウフフ。彼女はまだバルセロナにいるわ。しかも、どこにいると思う?ここ、わが家にいるのよ」奥様が楽しそうに一部始終を説明している。「明日あなたの飛行機が着くのは〇時よね?メグミの飛行機は△時だからちょうどいい!空港で落ち合いましょう。ちょっと待って」受話器が私に回ってきた。「¡Hola!メグミ。Muy bien。今夜はゆっくり休むといい。Hasta mañana」「Gracias. Hasta mañana」Hasta mañana~また明日!嬉しいなぁ。M先生ともう一度、この挨拶を交わせるとは夢にも思わなかった。
「メグミ、どこで寝たい?」電話が済むと、奥様が私に尋ねた。「お客様用の寝室もいいけれど、レッスン室のソファはベッドにして使えるの。もしもレッスン室がよければ、それもOKよ」思い出がいっぱいに詰まったあの部屋で眠れるなんて!「日本の人は夜にお風呂に入るのでしょう?私たちは朝にシャワーを浴びるから、今夜バスルームは貴女が独占!どうぞ使ってちょうだい」この際だ。何もかもお言葉に甘えることにした。長い1日の夜が更けた。「おやすみなさい」挨拶をして、レッスン室の大きな楽譜棚とピアノの間にしつらえられたソファベッドに横になる。レッスンに、『日本民謡集』の仕事に、と、通いつめたこの部屋。M先生の魔法の指で優しい音を奏でてくれたピアノ、膨大な数の楽譜や本、壁にはご家族の写真。ビクトリア・デ・ロス・アンへレスとM先生の演奏会の写真がかかっていた場所は空いたままになっている。あの貴重な写真は今、私のスーツケースの中に大切に仕舞い込まれているのだ。昼間の空港での騒ぎが遠い出来事に思えた。それにしても、神様は粋なご褒美をくださったものだ…。
¡Hola! バルセロナ(50)
翌朝、再びお別れの時が来た。「今日も飛行機が飛ばなかったら、また戻って来なさい。何も心配いらない」父上の厳かな言葉に、「そうだよ。メグミはもうバルセロナに我が家があるんだから」と、息子さんが得意のウィンクで答えてくれる。「いつでも帰っておいで。待っているよ」母上はギュッと強く抱きしめてくれた。もしも、もしも、今日もあの便が欠航してくれたなら…。最後の最後まで私を優しく温かく守ってくれたご家族の皆さん、本当にありがとうございました。
空港はごった返していた。まずカウンターに向かう。今日の案内嬢はすごい美人だ。極めて事務的に搭乗手続きが済んだ。昨日のアクシデント、大騒ぎがウソのようだ。「お客様にはご迷惑をおかけしました」らしき台詞が一切無いのも、スペインらしいというべきか。カウンターの周りには、当然のことながら昨日と同じ面々が集まっていた。相変わらずグループに分かれて、各々、「私達は旅慣れているのよ」といわんばかりの、ちょっとイヤな雰囲気をまき散らしている。余計なお世話で言葉を交わした中年カップルは、私を見ると、慌てて目をそらせた。いかにも感じが悪い。不思議なことだが、スペインで暮らし、スペインを好きになればなるほど、自分が日本人であること、日本という国を愛していることを実感するようになった。しかしまたその一方で、今、目の前で繰り広げられているような光景、雰囲気を忌み嫌い、強い違和感を抱く自分にも気付いた。大発見だった。どうやら私は規格外の変な日本人らしい。
M先生が乗った便はすでに「到着」の表示が出ていた。ところが「いつもこの辺で待ち合わせるのよ」と奥様が言う場所は人、人、人で溢れ、大混雑。M先生を探すどころか、奥様と私もはぐれてしまいそうだ。M先生と似たような背格好の人を見つけて、アッ!と思えば別の人。ロビーをグルグル回っているうちに、もと居た場所に戻れなくなり、またウロウロ…。探しても探してもM先生は見つからない。刻一刻と私の便の出発時刻が迫ってくる。「困ったわね。どこにいるのかしら…」奥様も途方に暮れている。同じ空港の同じ場所にいながら最後に会えない?このまま出発してしまう?それは悲しすぎる。いや、絶対にそんなことがあるはずはない。私は眼に全神経を集中し、ごった返すロビーを端からゆっくり見回した…。「Mira!」まるで一瞬、そこだけスポットライトが当たったようだった。壁の近くで、私達とは反対の方を向いて立っているM先生を見つけたのだ。見慣れた紺色のシャツの背中、今度こそ間違いない。「どこ?どこにいるの?」「ほら、あそこに!」私が指さす方向に奥様も一緒に走り出す。けたたましい話し声とベラベラ早口で流れるアナウンス。すさまじい喧騒のなか、いくら大声で呼んでもM先生は気がつかない。人混みをかき分け、かき分け、やっとたどり着き、一瞬ためらうも、仕方がない!紺色シャツの背中を思いっ切り叩いた。振り向いたM先生。「¡Hola!メグミ、昨夜はよく眠れたかい?」いつもの調子だ。事ここに至れどもマイペース、焦りも慌てもしないM先生に、私は半ば感心し、半ば呆れてしまった。もう時間がない。「行きます。本当にありがとうございました」「同じ言葉をメグミに贈るよ。私達に幸せな時間をありがとう」「メグミ、Hasta la vista」奥様の大きな目が潤んでいる。Hasta la vista~また会う日まで。寂しいけれど寂しくない。でも、でも、やっぱり寂しい…。思わず言葉につまる私に、M先生がニッコリ微笑んだ。「Hasta la vistaじゃない。Hasta prontoだよ。Hasta pronto、メグミ」Hasta pronto~またね。そうだ。また会える。きっと、すぐまた会える。
ゲートを抜けて振り返ると、背伸びをして大きく手を振ってくれているM先生と奥様の姿が見えた。
Hasta pronto!バルセロナ、Gracias!バルセロナ、 Mi querida Barcelona!!
エピローグ
「バルセロナで歌い、暮らし、スペイン語を学ぶなかで、考えさせられることが沢山ありました。もしかするとこの経験は、スペイン語の勉強で苦労されている方々の何かの参考になるかもしれません」「ほほう。では、それを文章にしてみては?」日西翻訳通訳研究塾・塾頭、碇順治先生とのこんな何気ない会話をきっかけに、歌修行日記『¡Hola!バルセロナ』の連載が始まりました。全体構想らしきものがあったわけではありません。バルセロナで悪戦苦闘した若き日々を振り返り、次々と思い出すままに書き綴り、そういえばあんな事があった、こんな事もあった、と、キーボードを叩く指が止まることもしばしば…。この気まぐれな読み物がまさか足かけ5年も続く連載になろうとは!貴重な機会を与えてくださった塾頭先生、そして長い間ご愛読くださった皆様、本当にありがとうございました。
「Gracias」と「Adiós」しか言えないままバルセロナへ渡ってしまった私は、世界各国からやって来た若者たちと一緒に英語でスペイン語を習う、という、とんでもない状況に陥りました。一方で、当時のバルセロナは、すでにcastellanoとcatalánが自由に飛び交う街でした。今の今まで理解できていた会話が突然分からなくなる。2つの言語(しかも、その両方が私にとっては外国語)が同時に存在する。奇妙な感覚でした。外国語とは何なのか?言葉とは何なのか?…。猛烈な勢いでスペイン語と格闘し、どうやら日常生活やレッスンに不自由しなくなった頃、今度は恩師の『日本民謡集』の仕事に携わることになりました。恩師は日本を深く敬愛し、日本のあらゆる事柄に興味を持っていたため、折にふれ、私に質問を投げかけてきます。いざ答えようとすると、自分が生まれ育った日本という国について、あまりにも漠とした、そして限られた知識や経験しか持ち合わせていないことに愕然としました。少しでも曖昧な答えをすると、そこはスペイン人、「だから?」「それで?」「なぜ?」と、恩師は、納得するまで、容赦なく攻めてきます。あぁ外国で暮らすとはこういうことなのだ、と、初めて気がつきました。スペインを愛する日本人として、スペインを知ってスペイン語を習得することはもちろん大事ですが、それと同時に、いえ、それ以上に、自国つまり日本のことをよく知り、知ったことを咀嚼し、自分の知識としてスペイン語で語れなければいけないのでした。
「スペイン語」を思う時、私はなぜか精緻な万華鏡が心に浮かびます。細やかに美しく、そして果てしなく広がる世界…。かぎりない憧憬の念とともに、これからもこつこつと学び続けていきたいと思います。
M先生ご夫妻に見送られてバルセロナを飛び立った、その後の物語を少しだけ綴らせていただきます。モスクワで乗り換えて無事帰国した私ですが、成田空港に着いてみると、バルセロナで預けたスーツケースが無くなっていました。船便での万が一の紛失を避けるために、バルセロナで手に入れた楽譜の中でも特に大切なもの詰め込んだ大事なスーツケースです。私を含めて20人分の荷物が行方不明になっていました。見つかるかどうか分からない、と宣告され、呆然自失、一日千秋の思いで待つこと一週間。ようやく出てきました。何でもモスクワ空港の隅っこに20個まとめて放り出されていたそうです。帰国の翌年、私は夏の音楽祭Grecに招聘を受けて再びバルセロナへ渡り、M先生の伴奏でリサイタルを開くことができました。またこの年から数年続けて、ビクトリア・デ・ロス・アンへレスが来日。各地で演奏会のほか、日本で初めてのマスタークラスも開講されました。同行したピアニストはもちろんM先生です。私は受講生としてマスタークラスを受講、さらに通訳を仰せつかり、一行とともに全国を回りました。ビクトリア・デ・ロス・アンへレスの言葉を日本語に通訳し、M先生の用事を手伝い、時には2人と一緒にコーヒーを飲み、食事をする…。夢のような時間でした。ビクトリア・デ・ロス・アンへレスは『日本民謡集』の「さくら」がお気に入りで、演奏会で何度も歌ってくれたそうです。2005年1月15日、彼女はその名の通りÁngelになり、天に昇って行きました。M先生は、今もバルセロナ音楽界の重鎮として活躍しています。三樹子さんは、昔と同じように、バルセロナから温かい励ましのパワーを送ってくれます。今年の春は、満開の桜を彼女と一緒に見ることが出来ました。M先生と三樹子さん。お二人に、あらためて心から感謝を捧げます。
最終回にあたり、読者のおひとりがメッセージを寄せてくださいました。「貴女と一緒にバルセロナの街を探検しているような気持ちで読んでいました。終わってしまうのは寂しいです」と。私も同じ気持ちです。お別れするのはちょっぴり寂しいです。でも、最後は、やはりスペインらしく陽気にまいりましょう!皆様、またいつか、どこかで!Muchísimas gracias y Hasta pronto!