1986年春、各地の音楽大学のホールを会場にして、日本で初めてのビクトリア・デ・ロス・アンへレスの公開講座が開かれた。当時活躍中の声楽家から現役の音大生まで、年齢もキャリアも異なる受講生が有名なオペラ・アリアや歌曲を歌い、彼女の指導を受けた。私もオーディションを受けて参加した。受講曲はエンリケ・グラナドス作曲「悲しみにくれるマハⅡ」である。日本ではスペイン歌曲はほとんど知られていない。「何、この曲?」と会場全体が訝しく思っていることが分かり、愉快だった。
最初の会場で待っていたのは英語の通訳だった。しかも音楽が専門の人ではない。ビクトリア・デ・ロス・アンへレスはもちろん英語も堪能だったのでレッスンは英語で行われた。しかし音楽用語が通訳に通じず、レッスンは何度も中断された。二番目の会場に現われたのはイタリア語の通訳だった。レッスンが始まったが、黒ぶちメガネの通訳氏は極度に緊張している様子で、話がさっぱり通じない。ついにビクトリア・デ・ロス・アンへレスがイタリア語と英語を駆使し、さらに身振り手振りを交え、彼に解説をしなければならない事態に陥った。
休憩に入ると、突然、私が呼び出された。「会場にメグミがいる。何故彼女にスペイン語で通訳させない?メグミを呼んで」と、ビクトリア・デ・ロス・アンへレスが言っているという。驚く私に、彼女のマネージャー氏は「メグミ、出番だよ!」とウィンクして見せた。かくして休憩後、後半のレッスンから、私は壇上で彼女の隣に座って通訳をするハメになった。いや、ハメではない。信じられない幸運が舞い降りたのである。
その後、日本各地で行われた公開講座に通訳として随行した。ビクトリア・デ・ロス・アンへレスといえば、20世紀を代表する世界的名ソプラノ、LPレコードで膝を正して聴く大歌手、そしてスペイン歌曲に出会ってからは、憧れて仰ぎ見る、まさに太陽のような存在だった。その人の言葉を通訳出来た幸せに、なんと感謝すればよいのだろう。
飾らない素朴なお人柄とお見受けした。私のような立場の者にも気さくに接してくれた。しかし大きな黒い目の奥には、凛としたゆるがぬ気品と風格、えもいわれぬ異次元のオーラが漂っていた。
ある夏、アルベニス生誕の町カタルーニャ地方カンプロドンで、ビクトリア・デ・ロス・アンへレスと師マヌエル・ガルシア・モランテの演奏会が開かれた。開演は夜10時。夜空に月が煌々と輝いていた。鄙びた町の会場で、入念なリハーサルを繰り返す二人。客席には私ひとり。美しく穏やかな時間だった。楽し気な二人の邪魔にならぬようじっと息をひそめ、私は、目の前に繰り広げられている夢のような光景を決して忘れまいと深く心に刻んだ。