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ヘッディング 4

¡Hola! バルセロナ(11)

 

 M先生のレッスンは10月から始まることになった。その前に引っ越さなければならない。我々歌い手の練習は、興味のない人にとっては、ただの騒音だ。この古ぼけたピソ、共同生活の中で歌うことは考えられなかった。どうやら楽器店にはレンタルピアノがあるらしい。しかし木製の固いベッド、戸が閉まらないクローゼット、小さな机でいっぱいの部屋にはピアノを置くスペースもない。とにかく歌える場所、練習できる部屋を確保しなければならない。このピソの住民は「自分の始末は自分でつける」精神が徹底している。とても部屋探しを相談できる雰囲気ではなかった。

 

 私は、秘蔵の連絡先を取り出した。知り合いの絵描きさんが紹介してくれた三樹子さんという日本人女性の電話番号だ。スペイン人と結婚してバルセロナに住んでいるとのこと。「何か困ったことがあったら彼女に連絡しなさい。必ず助けてくれるから」と絵描きさんが言っていた。この人に相談するしかない。こわごわダイヤルすると、「Hello!」受話器の向うから英語が返ってきた。「あの…私、日本から来た…」こちらが名乗るのを待たず、受話器の向こうの女性は言った。「あぁ!メグミさんですね。心配していました。とっくにバルセロナに着いているはずなのに何も連絡が無いので…」どうやら絵描きさんが手紙を出しておいてくれたらしい。「今日までどうしていたの?毎日何をしているの?これからどうするの?とにかく遊びにいらっしゃい」と三樹子さん。お言葉に甘えて、まずは、お宅にお邪魔することになった。

 

 翌日、市内の地図を網羅したGUIAを頼りに出発。15分ほど歩くと、私の居るゴシック地区とはガラリと雰囲気の違う町並みが現われた。どの建物も入り口はガラス張りだったり、お洒落なデザインが施されていたり。木の扉などどこにも見当たらない。どの入り口にも、部屋番号を記したブザーが付いている。私のピソにはそんなものは無かった。あるのは、大音量で鳴り響く古ぼけた呼び鈴だけ。帰宅して扉を開ける時は、鍵を微妙な角度で鍵穴に差し込み、これもまた微妙な力加減でグルリと回す。回し損ねると動かなくなる。「誰か、開けて~!」と外から叫ぶしかない。大騒ぎだ。これが同じ街だろうか?約1ヵ月半の自分の生活が、まるで古い映画のワンシーンのように思えた。

 

 スペインでは通りの名前と番地が分かれば目指す住所は簡単に探せる。それらしき建物を見つけ、何となくウロウロしていると、向うからベビーカーを押した長い髪の女性がやって来た。「メグミさん?そうよね!」と明るい声。三樹子さんだった。スペイン人の素敵なご主人と可愛いお嬢さん二人のご家族。どうしたものか、百年の知己のごとく、すぐに打ち解けた。私の事情を知り、彼女がさっそく部屋を探してくれることなった。親しく温かい心。久しぶりに緊張がほぐれた。もっと早く電話すればよかった…。しかし到着以来、ただ無我夢中。そんなことを考える余裕すら無かったのだ。

 

 ところで、私には、果さなければならない任務があった。

¡Hola! バルセロナ(12)

 

 日本で師事していた友子先生は、毎年、毎年、海外へ出かけている。留学のご挨拶に伺った際、「フランスで知り合ったドイツ人のビルギットがバルセロナに住んでいるの。彼女にプレゼントを届けてちょうだい」と、小さな包みを渡された。先生は、ちょっとそこまで、という感じで世界中どこへでも気軽に出かけてしまう。私の危機的状況などまるで想像がつかない様子だ。とっさに断ることも出来ず、その包みを預かってしまった。これを届けなければならない。未だスペイン語が不自由な私に気の重い任務だ。レッスンが始まる前に済ませておきたかった。

 

 手元にあるのは住所だけ。電話番号は分からない。ある日の午後、私はGUIAを頼りにビルギット・シュミットなる女性の家を目指した。山の手の方に向かって坂をどんどん登る。行き着いた建物は予想もしない超豪華マンションだった。おそるおそる入り口に近づくと、厳重なオートロックである。三樹子さんのピソにいたポルテロ(門番)の姿も見当たらない。試しにドアを押してみるが、もちろんビクともしない。あたりは静まり返っていた。ここで部屋番号のボタンを押したら?私は考えた。誰かが出て「どなたですか?」と言うだろう。そこで説明しなければならない。「私は日本人の歌い手です。ビルギットさんという人はいますか?私の日本の先生はフランスでビルギットさんと知り合ったそうです。先生からビルギットさんへのお土産を預かって来ました。それをお渡ししたいのですが…」過去の過去の説明は過去完了?全員がustedだから三人称?いや、こういう時こそ接続法…。無理だ。顔の見えないインターホン越しに、私のつたないスペイン語でそんなややこしい説明をすることは不可能だった。

 

 諦めて帰りかけると、ひとりの紳士が坂を上って来る。まさか、いや、しかし…何かがピーン!と閃いた。私は紳士に駆け寄り、尋ねた。「シュミットさんですか?」答えは「Sí」。もう恥も外聞もない。さっき考えていた内容をありったけの力で伝える。最初は怪訝そうにしていた紳士の表情がゆるんだ。「あなたは幸運だ。今日は隣町に住むビルギットが我が家に来ている。さぁ入りなさい」なんと!偶然にも私は、大切な家族昼食会の日に行きあわせたのだ。突然現われた正体不明の日本人を、家族全員が大歓迎してくれた。ステーキ、具沢山のパエリャ、手作りのケーキ等々をお腹いっぱいご馳走になり、質問に答えて日本のことを話した。頼りない私のスペイン語でも、なぜか話がよく通じていた。肝心の友子先生のお土産は、金魚柄のガーゼのハンカチ二枚。あぁ!この大いなる?プレゼントのために私はあんなに悩んだのか…。

 

 「私の家にも遊びにいらっしゃい。特製ピザをご馳走するわ」ビルギットに誘われ、私は週末、彼女の住む町へ初めてバスで出かけた。行き先を何度も確かめて乗ったのだが、どうも様子がおかしい。日本のように懇切丁寧な車内アナウンスは無い。仕方なく運転手に聞くと、やはり乗るバスを間違えていた。「お気の毒さま!」「お嬢ちゃん、気をつけな!」ほかの乗客に笑って見送られ、バスを降り、逆方向のバスに乗る。振り出しからまたやり直しだ。結局、ビルギットの家にたどり着いた時には、約束の時刻を2時間も過ぎていた。それでも彼女は優しい笑顔で迎えてくれた。聡明な女性だった。「本当はお料理は得意じゃないの」と、ちょっぴり照れながら焼いてくれたピザの美味しかったこと!いまだに私の中では、Noº1!一等賞!だ。ディング 4

¡Hola! バルセロナ(13)

 

 さっそく三樹子さんが部屋を見つけてくれた。外国人向けのアパルタメントで、今すぐ入居できる部屋がひとつあるという。悩む余地はなかった。とにかく引っ越さなければならない。台所、シャワー、トイレ、すべて共用の生活に、正直、かなり疲れていた。アパルタメントからは三樹子さんのピソも近い。何かあったら駆けこませてもらえる。引っ越しは週末に決まった。

 引っ越し前日の朝、壇オーナーが部屋にやって来た。お昼にマリア・ドローレスがパエリャを作るので、一緒に食べようとのこと。「おいくらですか?」思わず尋ねた。こんな時、このピソでは、オーナーと間借り人、あるいは間借り人同士が、細かくお金のやり取りをしていることを知っていたからだ。「いらないよ。送別会」と、壇氏。驚いた。せっかくの機会なので、マリア・ドローレスのパエリャ作りを見学する。米を洗わず、袋からそのまま鍋に放り込む様子に、また驚いた。3人で食事が済んだ後、玉ネギ氏とイガグリ君も誘って、隣のバルに出かけた。私の部屋から中庭での卓球が見えている店だ。昔とっ
た杵柄(私は中学時代、卓球に熱中していた)、スマッシュを打つと、ビール瓶片手のおじさん達は、やんややんやの大喝采。「おごりだ。飲め」グラスが次々と回って来た。「日本は遠い。俺は死ぬまで行けないよ」店のマスターがしんみり言うので、財布に付けていた弘法大師のキーホルダーをプレゼントする。「ありがとう。大事にするぜ」マスターの目が、心なしか潤んで見えた。

 翌朝、三樹子さんのご主人が車で迎えに来てくれた。玉ネギ氏もイガグリ君も出かけてしまい、留守。壇オーナーとマリア・ドローレスが玄関まで見送ってくれた。思えば、壇夫妻も玉ネギ氏もイガグリ君も、私にとっては、バルセロナで初めての知り合いだった。このピソがあったから、暮らし始めることが出来た。彼らが甘やかしてくれなかったおかげで、必死になれた、とも言える。ありがたいことだった。スーツケースを三樹子さんのご主人の車に積み込む。いよいよ出発だ。M先生の車でここへやって来た日が遠い昔のように思われた。

 新しい部屋では、三樹子さんが待っていてくれた。広いリビング、セミダブルのベッドが入った寝室、ゆったりとした浴室、冷蔵庫も洗濯機も付いている。さっきまでいた場所とは別世界だ。部屋に電話が無いため、家賃は格安だった。今日から何の気兼ねもなく料理をしたり、お風呂に入ったりできる。心底ホッとした。三樹子さん夫妻が帰り、ひとりになった。記念すべき第一日目。まずはシャワーを浴びてサッパリしよう!そう思い立った私は、それこそ誰に遠慮することもなく準備をし、シャワーの湯の栓を回した。冷たい水が勢いよく噴き出す。ほどなく湯に変わることを想定し、その水を頭から浴びてシャンプーを始めた。ところが、水は湯に変わらない。待っても待っても水は冷たいままだ。やがて、その水も止まってしまった。なぜ?なぜ?なぜ?暑い9月でも、さすがに冷えた。泡だらけの頭で為す術もなく、私は寒さにブルブルふるえた。

¡Hola! バルセロナ(14)

 

 翌朝一番にポルテロのおじさんを呼びに行った。昨夜の事態を訴えると「ほら、ここだ」と、アイロン台や掃除用モップが入った物入れの扉を開けて見せた。上の方にタンクがある。そしてコンセントの差込口。電気温水器らしい。「ここにコンセントを差し込まなければ電気が流れない。だから湯は沸かない。分かるか?」おじさんは威張って言った。それならそうと昨日説明してくれればいいのに…と抗議したい気持ちをグッと堪えて「Gracias」と答えてみる。おじさん、上機嫌である。張り切って、部屋中の電気製品の使い方をこと細かに教えてくれた。「分かるか?」がおじさんの口癖である。どうやら私を小学生の子どものように思っているらしい。

 

 ちなみに、この電気温水器のタンクはかなり小さめだった。コンセントを差しておいても、バスタブをいっぱいにすると湯は無くなってしまう。結局、水量を加減してシャワーを浴びるしかなかった。小さな冷蔵庫は中の電球がつかない。冷えてはいるが中が暗いのだ。おじさんに聞いても「そんなものだ」の一点ばり。洗濯機は備え付けが悪いのか、脱水になると、ブルンブルン音を立てて全身?を振動させ、前へせり出してくる。ポルテロの奥さんは「Está bailando(踊っている)!」と、自分も一緒に腰を振ってみせた。洗濯が終わった後、重い洗濯機を元の位置にぐいぐいと押し戻すのが習慣になった。

 

 その日の午後、レンタルピアノがやって来た。引越しの前にマリア・ドローレスと一緒に楽器店へ行き、配送の手続きを済ませてあった。「この店は確かだから大丈夫」という彼女の言葉を聞いて、なるほど大丈夫じゃない店もあるのか、と、妙に納得したりもした。レンタル料は毎月口座引き落としになる。

 

 青い作業着のお兄さん2人がピアノをトラックから降ろし、玄関からロビーを抜けてエレベーターの前まで運ぶ。そのままでは入らない。大きなかけ声とともにピアノを縦にして、無理やり積み込む。「気をつけて運べ」「壁にぶつけるな」ポルテロのおじさんは、お兄さんたちに威張って指示を出し、私には「心配するな」と繰り返す。しかし見ていると、ピアノが縦になろうが横になろうが逆さまになろうが一向に気にしない。おじさん、これが大事な楽器だということを分かっているのだろうか…。ピアノを4階で降ろすのにまたひと苦労。やっと部屋まで運び入れた。

 夕方、三樹子さん一家が様子を見に来てくれた。おじさんは、ピアノの搬入がいかに大変だったか、どれだけ自分が活躍したかを力説し、最後に「このniñaのことは任せておけ!」と胸をたたいた。やはり子どもだと思っているのだ。しかし、俺が守ってやるぞ、という感じ。悪い人ではないらしい。

 

 夜、リビングに鎮座したピアノのふたを開け、日本から持ってきた楽譜を置いてみた。「私はスペイン歌曲を勉強するために来たんだ…」バルセロナにいる理由を改めて思い出した気がした。

¡Hola! バルセロナ(15)

 

 「歌える曲を持って一度自宅へ来るように」M先生から指示があった。いくつかの曲を自分なりに準備はしていた。が、あくまでも自分なりに、だ。本当のところ、私のスペイン歌曲はスペイン人の先生に通用するのだろうか…。急に怖くなってきた。

 

 明日が初レッスンという日、絶妙のタイミングで日本から荷物が届いた。「スペインの先生へのお土産に」と、友人のひとりが自分の知り合いの陶芸家にわざわざ制作を依頼してくれた、大ぶりの九谷焼の飾り皿である。心強い援軍(援皿?)登場。「キミ、本気?ほんまに行く気?」私の突然の留学話に、友人達は驚き、呆れ、案じ、励まし、最後には、送別ドライブ旅行に連れ出してくれた。皆の顔が浮かび、何だかシンミリしてしまう。

 

 翌日、M先生のお宅にお邪魔した。ピソから歩いて20分もかからない。先生と奥様、そして父上と母上が笑顔で迎えてくれた。九谷焼の大皿に驚き、「これは波の模様です」などという私のにわか仕込みの説明を神妙な顔で聞いてくれた。

 

 レッスン室の壁にはビクトリア・デ・ロス・アンヘレスとM先生とのコンサートの写真が飾られている。そうだ…。ドサクサに紛れて忘れていた。M先生は、世界的名ソプラノ、ビクトリア・デ・ロス・アンヘレスの伴奏者なのだ。

 

 大学時代、「世界有名ソプラノ・アリア集」というLPレコードで初めてビクトリア・デ・ロス・アンヘレスの歌を聴いた。ビルギット・ニルソン、マリア・カラス、レナータ・スコット…。豪華絢爛、華麗なるアリア・オン・パレードの中で、ひとりビクトリア・デ・ロス・アンヘレスは素朴だった。地味にさえ感じられた。大学卒業後、ひょんなことからスペイン歌曲と出会い、今度は「教科書」のようにビクトリア・デ・ロス・アンヘレスの歌を聴くようになった。LPを片っ端から買い、発音から節回しまで、一生懸命真似をして練習する。外国語の歌というものを習い始めた時から、新しい曲はそうやって勉強するのが常だった。しかし彼女の歌は真似できるものではなかった。テクニックうんぬんの話ではない。彼女の歌は、いつも己の言葉で語っている。しかも限りなく自然体で。ビクトリア・デ・ロス・アンヘレスの歌はビクトリア・デ・ロス・アンヘレスの心、魂。誰にも真似できるものではない。「歌うことは語ること」そんな彼女の歌に、私は強い憧れを抱くようになった。彼女の歌に自分とはまったく異次元の何かを感じていた。私には計り知れない何かだった。

 

 M先生と一緒にニッコリと微笑むビクトリア・デ・ロス・アンヘレス。この日以来、レッスン室のドアを開けたらまず壁の写真を見上げる、これが習慣になった。

¡Hola! バルセロナ(16) 

 

 「¡Vamos a trabajar(さぁ、始めよう)!」ピアノの前に座ったM先生は、スーッとやさしく空気でも撫でるように弾き出した。指とピアノか、ピアノと指か…。鍵盤と一体化した手の動きが美しい。こんな風にピアノを弾けるなんて…。私はすっかり見とれてしまった。1曲め、エンリケ・グラナドスの歌曲を歌う。M先生「Bien」。次にまたグラナドスの歌曲、「Bien」。4,5曲を続けて歌った。「Bien。今日はここまで。レッスンは来週火曜日から」あっさりしたものである。どこを注意するわけでもない。どれもこれもbien(良い)?そんなはずがない。あまりの下手さに、M先生はレッスンする気が起きなかったのだろうか?私の歌は箸にも棒にもかからないほどひどいのだろうか?次々と不安がよぎる。何か、何か、言ってほしい。でも、M先生はさっさとピアノのふたを閉じてしまった。「Hasta la próxima semana(また来週)」ご家族に見送られ、私はお宅をあとにした。本当に怖くなってきた。

 

 翌週火曜日、バルセロナ市立高等音楽院での初レッスンの日だ。ここは日本の大学とはまったく様子が違う。子どもから大人まで様々な年齢の生徒が校内を自由に行き来し、カフェテリアでは若い男女がワイワイキャアキャア、お喋りに余念がない。カタルーニャを代表する作曲家Eduard Toldráの名を冠したホールもある。3階にはレッスン室がずらりと並んでいた。ピアノ、声楽、ヴァイオリン…。どの部屋でも先生と生徒がレッスン中。たどり着いた一番奥の部屋にM先生がいた。女子学生と挨拶を交わしている。次は私の番だ。怖い。私の顔を見たら、先生は深いため息をつくのではないだろうか…。

 

 レッスン開始。先日と同じように、M先生はスーッとピアノを弾き出した。弾くことと弾かないことの境目がない、とでもいうのだろうか。不思議な自然体だった。とにかく夢中で歌った。まず徹底して発音を直された。日本人の発音でよく言われることだが、RとLの区別が明確に出来ていない。特にLがまずい。油断すると舌が行方不明のままLを通過してしまう。分かっていても、気をつけていても、ついR風に発音してしまう。さらに、母音のuとeがよろしくない。uはもっと深く、eはもっと口角を引いて明瞭に、という感じだ。RとL、それにuについてはドイツリートでも学んでいたが、eに関する指摘は初めてだった。M先生は決して聴き逃さない。少しでも曖昧な発音になると「No」と必ずやり直させる。ついうっかり、の時でも容赦なく「No」そして「Otra vez(もう一度)」となる。発音のことばかり考えながら必死で楽譜を追う。歌というより、お口の体操をしている気分だった。

 

 「Bien。今日はここまで」アッという間に終了時間がきた。もっと歌いたかった。初めて本気でスペイン語を見つめて歌った気がした。アルファベットのひとつひとつがくっきりと浮き立って見える。外国語で歌うとはこういうことなのだ、初めて実感した。「ほら。お客様がいっぱいだ」M先生の言葉に振り向くと、数人の子ども達がドアに頬をくっつけ、こちらの様子をうかがっている。私と目が合うと、皆一斉に大歓声。パチパチと拍手をしてくれた。

¡Hola! バルセロナ(17)

 

 毎日9時から12時までスペイン語のクラスに通い、買い物をして帰宅、午後は歌の練習とレッスン、そしてスペイン語の予習・復習。やっと留学生らしい生活が始まった。

 

 毎日歌うこと、これを危惧していた。歌の練習は、周囲にとってはただの騒音だ。練習だから、当然、同じ曲を何度も何度も歌う。実家の母でさえ「たまには違う曲を歌ってちょうだい」などと言っていた。歌だけではない。大学時代、私の部屋の上の階に住んでいた作曲科の先生は、部屋に大きなグランドピアノを入れていた。防音の部屋とはいえ、彼がショパンの「革命」を弾くと、音はつつぬけ、天井が揺れた。負けじとこちらも歌うか、ピアノを弾くか、ワーグナーの楽劇を大音量で鳴らすか…。音楽の練習とは、それほど「うるさく迷惑なもの」なのだ。

 

 入居前に不動産屋に確かめたところ、「このアパルタメントは外国人向けなので住人がしょっちゅう入れ替わる。しかも皆、昼間は仕事に出ているから歌っても問題ない」とのことだった。確かに昼間はシーンと静まり返っている。歌の練習を始めて数日が過ぎても、誰も何も言って来ない。一度だけエレベーターで会ったご婦人に「歌っているのは貴女ですか?」と話しかけられたことがある。「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と慌てる私に、「迷惑?とんでもない。素敵ね」と言ってくれた。

 

 ある土曜日の真夜中、グッスリ眠っていた私は、ガンガン鳴り響くロックにたたき起こされた。隣部屋の住人がパーティーを開いているらしい。しかもその時初めて気づいたのだが、私の寝室の壁の向こう側が隣の部屋のトイレなのだ。安普請なのだろう。誰かがトイレを使うたびに、レバーを動かす音と水を流す音、そしてご丁寧にトイレのドアを閉める音まで聞こえてくる。ガッタン・ジャー・バタン、ガッタン・ジャー・バタンの繰り返し。うるさくて眠れない。「何時だと思っているの!」怒鳴り込みたい。しかしこちらにも弱みがある。「昼間のあんたの歌の方がよほどうるさい!」と逆襲されるかもしれない。一度クレームが出たら歌えなくなる。耐えるしかない…。ガッタン・ジャー・バタン、ガッタン・ジャー・バタン…。悪夢のような土曜日の夜は、その後もしばしば訪れた。

 

 ある夜は、異様な爆発音で目が覚めた。パンパン!バンバン!ものすごい勢いで外で爆竹が鳴っている。キャー!キャー!プップー!ピッピー!飛び交う奇声、車のクラクション、ただならぬ気配…。ハッとした。「これがクーデターというものなのだろうか?朝には世の中が一変している、そんな歴史的瞬間に自分は立ち会っているのだろうか?」昔、教科書で習ったいくつかの歴史的大事件が頭をよぎる。恐怖と緊張で眠れなかった。夜が明ける頃、外はやっと静かになった。こわごわカーテンを開けてみる。別段変った様子はない。そのうちに向かいのパン屋が店を開けた。仕事に出かける人もいる。窓の下ではいつもの朝の営みが始まっていた。スペイン語のクラスも普通に始まった。ミゲルの真面目な講義とアントニオの軽口、宿題の作文の発表と動詞の活用の復習…いつもと同じだ。誰も何も言わない。授業が終わろうとする時、ついに私は我慢できなくなった。「昨夜、いったい何があったの?」皆、ポカンとしている。やがてミゲルが必死に笑いをこらえて言った。「昨夜の出来事を知らないのは、バルセロナ中でメグミだけだよ」「?…」当時はサッカーにまったく興味がなかった私。アパルタメントはカンプ・ノウ(サッカー競技場)のすぐ近くだった。昨夜はバルセロナのチームがマドリードのチームに勝ったそうな。興奮したサポーター達が勝利の雄叫びを上げていたのだ。

 

 どうやら「うるさい」の規準が違うらしい。耳をつんざく真夜中のロック、天地を揺るがすサッカーファンの爆竹と奇声…。これらに較べれば、私の歌など「蚊の鳴くようなもの」だ。納得し、開き直り、私は遠慮なく毎日歌うことにした。

¡Hola! バルセロナ(18)

 

 M先生のレッスンは順調だった。とにかく発音を厳しくチェックされた。聴いている人が「この歌い手はスペイン人?」と思うくらい正確に、が目標だ。少しでも発音が曖昧になると、「Otra vez(もう一度)」やり直しをさせられた。曲作りに関しては「そこを強く、そこを弱く」というような指示は無い。歌の背景、歌詞の内容、その裏に込められたニュアンス等を解説してくれる。理解できずに質問をすると何度でも答えてくれる。やり取りを重ねるうちに、歌の世界そのものが感じられ、自分が歌いたい歌の姿が見えてくる。次にそれを表現すべく歌ってみる…。そうやって、不器用でも、自分自身の歌作りをすることを教えられた。新しい課題曲を与えられ、つい不安で誰かのレコードを聴いて予習して行くと、必ずバレた。歌の途中でいきなりピアノを止め、「誰の録音を聴いてきた?」と聞かれるのだ。「imitación(真似)には何の意味もない。メグミはメグミの歌を歌うように」が、M先生の口癖だった。

 

 幸いだったのは、これらの会話をスペイン語で出来たこと、つまり、スペイン語でスペインの歌のレッスンを受けられたことだ。M先生は本当に忍耐強く私の頼りないスペイン語に耳を傾けてくれた。語彙不足、文法力不足で表現が定まらない時は「それは○○○ということか?」と私に尋ねてくれる。「No。私が言いたいのは△△△ということで…」とまた舌足らずな説明をすると、先生は最後までジッと聞き「ということは、▲▲▲か?」と、どこまでも理解しようとしてくれる。拙いスペイン語でも受け入れてくれている、その心が伝わるので、間違いを恐れずに話すことが出来た。逆も同じである。M先生の話の内容が理解できない時は何度でも質問し、それに対して先生は根気よく答えてくれた。この繰り返しが私のスペイン語を育ててくれた。歌だけではない。スペイン語でもM先生は私の恩師だった。

 

 「スペイン語がうまくなりたければ、市場や個人商店で買い物すること。スーパーマーケットは何も言わずに買えるから楽だけど、それじゃぁ進歩しないよ」前のピソの住人、イガグリ君の教えを守り、私はクラスの帰りに八百屋、果物屋、パン屋等に寄って買い物をしていた。どの店も1時には閉まる。いつも駆け足だ。パン屋にはわずかな売れ残りしかなく、それも無い時は、仕方がないのでアパルタメントの近くの何でも屋でBimboの食パンを買った。

 

 この何でも屋、お値段は少々高めだが何でもあった。パン、ミルク、チーズ、ハム、野菜、果物、スープの素、缶詰、コーヒーetc。店のおやじさんは「外人だな」という顔で私をジロジロと見る。どこか態度がよそよそしい。「あんたと親しくなる気はないよ」とでも言いたげだった。ある日、店頭にkakiが並んでいた。「この果物はお薦めだ。甘くて美味しい」珍しくおやじさんが話しかけて来た。「これは日本の果物。kakiは日本語よ」とスマシて答えると、おやじさんはビックリ仰天。「Ja、Ja、Japón! ka、ka、kaki!kaki は日本でもkakiなのか?」いつもの気取り屋はどこへやら。すっかり憧れの眼差しである。「Japón?」店の奥で黒い人影がムックリ動いた。出て来たのは、何と!いつも彫像のように座っているおばあちゃんだ。歩いているところを初めて見た。「nena(お嬢ちゃん)、あんた、本当に日本から来たのかい?日本は遠いだろう。いったい船で何ヶ月かかった?」「船…」う~ん。

¡Hola! バルセロナ(19)

 

 何でも屋でも市場でも「誰が最後ですか?」と聞いて列に並ぶ。買い物の時だけではない。銀行でも郵便局でも音楽院の事務室でもとにかく並ぶ。並ばなければならない。スペイン人にとって、これは鉄の掟のようだった。最初の頃はそんなことを知らず、何となく誰かの後ろで自分の順番が来るのを待っていた。ふと気づくと、四方八方から冷たい視線が飛んでくる。何…?訳が分からず突っ立っていると、怖い顔をしたセニョーラがつかつかと近づいて来て言った。「私が最後です。私の後ろに並びなさい。これは決まりです。貴女も守らなければいけません」老若男女を問わず、誰でもどこでも並ぶ。どんなに長い列でも文句を言う人はいない。皆じっと自分の順番が来るのを待つ。課せられた絶対のルールなのだ。

 

 ところがある金曜日、閉店間際の銀行に駆け込んだことがある。窓口には予想通り長蛇の列。こういう時でもスペインの窓口担当者は決して急がない。あくまでも自分のペースで仕事を続け、時間が来たら、たとえ何人待っていようと平気でカーテンを閉める。お金を引き出せなければ週末に困る…私は祈るような気持ちで列に並んでいた。ふと見ると、VIP窓口担当のおじさんが私に何か合図を送っている。「来い、来い」という感じである。「エッ?」と目で問い返す。やはり「来い、来い」である。意を決し、私はまるで当然のごとくさっそうと列を離れ、VIP窓口に移動した。おじさんは私の通帳を開き、すぐに現金を渡してくれた。ものの1分もかからない。「Gracias」「De nada」ニッコリ落ち着いて挨拶を交わし、銀行を出る。一般の窓口にはまだ沢山の人が並んでいた。あまりにも堂々とした私達のパフォーマンスを怪しむ人は誰もいない。やった!¡Viva掟破り! それにしても、今もって分からない。よれたTシャツにジーンズ、どう見てもVIPにはほど遠いスタイルの私を、あのおじさんはどうして呼んでくれたのだろう?

 

 この日慌ててお金を引き出したのには理由があった。スペイン語クラスの後で、ピーターが「週末、泳ぎに行こう!」と言い出したのだ。イーヴォもエレナも乗り気である。“地中海で泳ぐ”こともあろうかと、私も秘かに日本から水着を持ってきていた。「シッチェスが有名だけど、混んでいるかしら」エレナが呟くと、ピーターが言った「今、なぜ泳ぎに行こうと考えるか。それは僕らがスペインより北の国の人間だから。Somos extranjeros(我々は外国人だ)!僕らにとってまだ地中海の水は温かい。十分泳げる。けれどスペイン人にとって今はもう秋。泳ぎに行くスペイン人はいない。よってビーチはガラガラ。我々の貸しきり状態になる」…。ピーター博士の大演説に一応納得し、土曜日に出かることになった。翌日シッチェスに着いてみれば、ビーチは大混雑。スペイン人も外人も、あやしげな風情のお兄さん達もいた。「ピーター大先生、今日は貸し切りじゃなかったの?」エレナが笑いを押し殺して尋ねると「これが人生。良い時も悪い時もある。大切なのは、今日という日を楽しむことだ」と何くわぬ顔で答え、さっさと泳ぎにいってしまった。薄曇の空、さえない天気の午後だったが、私達は観光客の気分でビーチを満喫した。哲学者気取りのピーター、物静かで心優しいイーヴォ、お茶目な絵描きの卵エレナ、そしてまだ誰にも歌い手だと信じてもらえない私。スペインが大好きな Somos extranjeros!4人は仲良しだった。

¡Hola! バルセロナ(20)

 

 「Somos extranjeros(我々は外国人だ)!」このフレーズは私たち4人のお気に入りだった。授業中に誰かが答えに窮すると、Somos extranjeros!と助け舟を出し、嫌なことがあるとSomos extranjeros!と慰めあう。ある日、授業中に闘牛の話が出た。あれこれ質問をしても、ミゲルもアントニオも反応がそっけない。授業が終わるとピーターが言った。「我々は今、どこにいるのか?スペインである。Somos extranjeros!一度は闘牛を見るべきである!」「そうだ、そうだ!」と意気投合。4人で闘牛見物に出かけることになった。意外にも、普段は物静かなイーヴォが熱中していた。私は牛の心情を察してしまい、どうにも楽しめなかった。

 

 フラメンコもしかり。ミゲルとアントニオは「興味がない」と言ったが、Somos extranjeros!私たち4人はバルセロナで一番有名なタブラオへ繰り出した。ランブラスで待ち合わせ、ぶらぶら散歩。カフェで道行く人を眺めながらコーヒーを飲んでいると、みすぼらしい格好をした女が「哀れな私にお金を」と近づいて来た。こういう場合、私たちはスペイン語が出来ない振りをすることにしていた。Somos extranjeros!スペイン語が分からなくても不思議はない。ところがこの女、知らん顔をしていてもしつこく話しかけてくる。「家には可愛い坊やがいるの」「この3日間、何も食べていないの」あまりにも見え透いた手口に笑いをこらえながら無視していると、女がいきなり私に向かって叫んだ。「アンタ、日本人やろ?黙ってたって分かるよ」「エッ!?」思わず反応してしまった。「ワタシ、寝屋川に住んでたんよ。京阪電車知っとる?ワタシ、ダンナと別れてモロッコから来たよ。アンタ、何でここにおるん?バルセロナはええで。好きやねん。もう金はいらんわ。悪い男にだまされたらあかんで。ほな、さいなら」女は関西弁でまくしたて、私の肩をポーンと叩いて去っていった。ビックリして言葉が出ない。ピーターもイーヴォもエレナも呆気にとられている。「メグミの知り合い?」「違う、違う。だけど彼女が話したのは日本語で、日本語にも色々な種類があって、彼女が使ったのは私が住んでいた場所の日本語で、それで、それで…」ランブラスのど真ん中で、外国人が話す流暢な関西弁を聞こうとは…。その後、何度かこの関西弁女を見かけた。相変わらず「家には可愛い坊やが…」を繰り返している。私と目が合うと、ニヤッと笑い、行ってしまう。奇妙な女だった。この夜のフラメンコは、素人目にも観光客向けと分かる退屈なものだった。それでもショーが跳ねた後はbarでワインをひっかけ、extranjerosの我々も一端の気分でバルセロナの夜を楽しんだ。

 

 まもなく別れの時が来た。研修期間を終えたイーヴォがスイスへ帰国すると言う。授業中よく私を助けてくれたイーヴォ。最後の挨拶の時は思わず涙が溢れた。そのうちに、ピーターがふっと現われなくなった。「挨拶もしないで。アイツらしいわ」寂しさまぎれにエレナが言った。ちょうどその頃、新しくスイス人のクリストフとクリスティーナがクラスに入って来た。どういうものか、エレナとクリスティーナは馬が合わない。大学が忙しくなったことを理由にエレナもクラスを休むようになった。クリストフとクリスティーナと私の3人。「un dos tres」ではなく「ein zwei drei」で盛り上がったが、2人は欠席が多かった。私の個人レッスンのような授業が何度か続いた後、ミゲルが申し訳なさそうに言った。「このクラスは今日でおしまい。メグミの授業は学院長が担当するから…」またこれだ。しかも学院長?あの禿げ頭のおじさんではないか。

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